透き通る美声と品のいい唱法が堪能できる
歌謡曲の異風と微風とサウダージ
テレサ・テンが日本でデビューして10年目になる1984年、アルバム『つぐない』がリリースされた。
所属がポリドールからトーラスレコードに変わり、その後「愛人」、「時の流れに身をまかせ」と、国籍問題での中断を補ってあまりある大ヒットを連発するきっかけになったヒット曲が「つぐない」だった。
今回は、そのアルバムのオリジナルマスターテープから誠実カッティングしたLP盤とSACD/CD盤の満を持したリリースだ。
その録音だが、特にSACDの鮮度と豊かな音色が魅力だ。各パートのエネルギーを蓄えては素早く放射する活性、凝集度の高さ。また、この時代らしい電気ベースの質量感と推進力が当時の洋楽系のサウンドを意識していることが感じられる。
それになにより、テレサ・テンの声が優し気な装いでありながらはかなさや危うさを伴なって浮遊する。純度の高い声色を基調として絶妙な陰影を伴ないつつ控え目な抑揚。演歌系とはいえ、ケレン味や強いビブラートを抑えた端正な唱法であり、それがなぜか日本人の心情の隔壁を溶かしていくのだ。
SACD/CDハイブリッド盤
『つぐない/テレサ・テン』
(ユニバーサルミュージック/ステレオサウンド SSMS-060)¥4,950 税込
1. つぐない
2. 晩秋
3. 待ちわびて
4. 雪化粧
5. 東京ジェラシー
6. 上海エレジー
7. 空港
8. 娘心
9. さよならあなた
10. 夢芝居
11. 笑って乾杯
12. 北国の春
●マスタリングエンジニア:武沢茂(日本コロムビア)
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それは最初のヒット曲であり、このアルバムにも新しいバージョンが収まっている「空港」からして感じられたことだ。
当初は日本語発声の問題から、発語のつたなさが可愛さを感じさせるという風に言われがちだったけれど、どうだろうか。10年後になったこのアルバムでは、日本語がずいぶんこなれていることを証明しているわけで、それにしてもこわれもののように可憐であり、生々しい哀感がこぼれつつ懐かしさや愛おしさが勝るという心境がいや増している。当初の切れの良さや高域の伸びやかさはわずかに控え目になったけれど、むしろ歌の風格が増しているといっていいだろう。
ただし、ありきたりの熟成感ではなく、初々しさが至純の光を放ってやまない不思議な唱法の完成度が高まったのだと思う。
身びいきの願望を綴れば、この先にはポルトガル語の歌謡に頻出する“サウダージ”の世界が開けていたのではないかと思う。それは郷愁、悲哀、愛惜、喪失など様々に訳しても訳しきれない不磨の言葉だ。私が<ブラジルの美空ひばり>と勝手に名付けているエリゼッチ・カルドーゾのサンバ歌謡、最初期のボサノバなど聞けば、それがたちどころに実感できるだろう。
ただし、テレサ・テンの声は声色の深さや胆力では至らないものの、エリゼッチよりも高純度の声質からくる浸透力、また中華系らしく語尾が少し上ずる雅な綾模様の魅力の点で勝っているかもしれない。その境地を確立する前に42歳で早逝したのがなんとも惜しまれる次第。
ところで、ボサノバが出たついでに触れておきたいのが、アルバム冒頭の「つぐない」だ。この伴奏音型は歌謡曲流ハバネラというべき“ズーンチャチャッチャ”を基本にしているけれども、旋律がモノトーン唱法になじむボサノバ調に思えるのだ。歌謡曲系での先例として丸山圭子の「どうぞこのまま」(1976)を思い出すと納得されるだろう。実際にボサノバ編曲版「つぐない」の演奏をWebで聴くことができるのだし。
このボサノバ調の印象は、実はテレサ・テンの唱法自体にも通じることだ。すでに触れたように、往年の演歌にありがちな振幅や音程、声色の揺らぎをやたらに強調したビブラートはすっかり抑えていて、わずかにフレーズの頂点で陰影を増したり、なめらかな移行に濃淡を添える程度なのだ。それが彼女の純度の高い声音に見合っているわけで、この曲の乾いた哀感を引き立てることにもなっている。サウダージの境地に肉迫しているのである。
ならば、テレサ・テンに中国語で生粋の演歌を歌わせたらどうなのかという興味も生じるだろう。たとえば「津軽海峡・冬景色」などWebで聴くことができる。ただし「一片落葉」という別の歌詞になっている。
これはやはり端正で声の純度が明瞭な歌い方であり、演歌流の濃すぎるビブラートや“こぶし”とは別物だ。そちらは石川さゆりのオリジナルで味わえることになる。ただし石川さゆりも古い演歌唱法を控え、エグ味をよく抑えている。
ちなみに、器楽のビブラート奏法は基の音に対して音程を微妙にゆらして持続性を与える奏法だが、クラシック音楽では基の音に対して低い方向に揺らすのがセオリーだ。基音に対して上下にせわしなく揺らすのはロックギターのチョーキングのようなもので、強い効果があるけれど下品になりがちだ。実際に音程に敏感な人は、演歌の過剰な音程の揺らぎ、揺らいだ果てに基音からズレたまま終わる、というのが気持ち悪く、肌に発疹を生じる例まであるそうだ。そういう身体感覚に至るまでエグ味を追求して共感力を確保してきたのが演歌唱法ということか。
一方、ビブラートなしで奏されるバロックヴァイオリンなど単調に聴こえがちだが、アンドルー・マンゼのような名手となると、運弓の速度や弦に対する圧を微調整し、フレーズの濃淡を描き分けて上品に表現の幅を確保している。これは一筆で龍の絵を描く大道芸にも似ている。
そんなわけで、テレサ・テンの透き通る美声と品のいい唱法が堪能できる良質な録音盤はコレクション価値がすこぶる高いだろう。SACD層の濃密感と滑らかな描写に対して、CD層はいくぶん明るい音調になり、声も伴奏も音像の輪郭が明瞭。陽性の音調は「上海エレジー」(作曲:南こうせつ)、「夢芝居」(作曲:小椋佳)などであか抜けた響きを導く。
LP盤については、カッティングレベルはほどほどに、帯域が広く、声だけが突出することもなく繊細微妙なトーンで充たされている。これぞビューティフル・ドリーマーというべきか、端正にして染み入るような美声の魅力を十全に味わいたいのならLP盤にしくはない。
33 1/3回転 180g重量盤アナログレコード
『つぐない/テレサ・テン』
(ユニバーサルミュージック/ステレオサウンド SSAR-064) ¥8,800 税込
DISC 1
[Side A]
1. つぐない
2. 晩秋
3. 待ちわびて
4. 雪化粧
5. 東京ジェラシー
6. 上海エレジー
[Side B]
1. 空港
2. 娘心
3. さよならあなた
4. 夢芝居
5. 笑って乾杯
6. 北国の春
●カッティングエンジニア:武沢茂(日本コロムビア)
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