アメリカ、ZMF headphonesの新ヘッドホン「Atrium」(アトリウム)の振動板はバイオセルロースだ……と聞いて、私の記憶はいっきょに25年前に飛んだ。
バイオセルロースを世界で初めて振動板に採用したソニーの木製密閉型ヘッドホン「MDR-R10」の思い出だ。当時としては驚愕的に素晴らしい音だった。アセトバクターというバクテリアが糖分を食べて産出する“天然繊維”がバイオセルロース。振動板素材として音速が速く、内部損失が大きいという理想的な特性を持つ。加えて樹齢200年の会津のケヤキ材によるハウジングが、上質な響きを音に与えていた。
●ヘッドホン:
ZMF headphones ZMF Atrium STD ¥462,000(税込)
※限定モデル「ZMF Atrium LTD」¥488,400(税込、生産の都度入手できる希少木材を採用)
●インピーダンス:300Ω
●感度:〜97dB/W/m
●使用ドライバー:バイオセルロース
●質量:450±20g
●イヤーパッド素材:ラムスキン
※付属品:ケース、ユニバースパッド、オーテールパッド
「この音を作りたい!」ZMFの創始者でギタリストのZach Mehrbach(ザック・メアファー)氏が、ヘッドホンを自分で開発しようと思ったきっかけが、実はMDR-R10だった。「私はMDR-R10が持つ驚異的な音質と奇妙な輪郭の複合曲線の木製ハウジングデザインに魅了されました。それから、MDR-R10をいかに超えるかが、私のヘッドホンづくりの目標になったのです」と述懐している。
彼は、それまでFostex「T50RP」ヘッドフォンのカスタマイズ職人として、マニアの間では名を馳せていた。MDR-R10に出会って、人生の目標が定まった。それ以後、数多くのヘッドホン製品を作り上げる過程で、さまざまな新技術、音響的ノウハウ、デザイン手法を編み出してきた。それらの集大成的成果として今回、開発に成功したのが、ここに紹介するAtriumなのである。
「アトリウム」とはガラスやアクリル板などの透明素材を屋根にした大規模広場のこと。古代ローマの住宅で柱廊をめぐらした中央広間という意味もある。つまりは「空間」だ。
「私はさまざまなヘッドホンの音響技術を開発する中で、ヘッドホン内部の音響空間にいかに部材、素材を配置し、響かせるかが音作りのポイントであると体得しました。ドライバーの特性に最適に合致させた気流の流れやダンピングを形成するため、どのような制振素材を、どのように配置して調整するかを突き詰めたのが、今回採用した“Atrium Damping System”なのです」(Mehrbach氏)
ドライバーは耳からどれくらい離れるべきか、イヤパッドはどのくらいの厚さでなければならないか、その質量は、カップの容量は……。Atriumは結果的に、これまでに開発してきたヘッドホンの中で、グリルとカップの通気口の面積がもっとも広いヘッドフォンとなった。文字通りAtriumの中で、さまざまにチューニングし、大面積が最良だと判断したのである。
ハウジングにも凝った。木工の専門知識を使い、多数のハウジングの幾何学的構造を試し、複合曲線を導き出した。グリルのデザインはゴシック様式の大聖堂からインスパイアされた。
空間のしつらえにそこまでこだわったのは、まさにバイオセルロースから、“理想の音”を引き出すためであった。「MDR-R10に邂逅して以来、ドライバー振動板の素材として、バイオセルロースに常に着目してきました。本来備わっているダイナミックでパンチの効いた重量感のある音色に、リアリティのある表現を加えることで、リスナーは音楽に完全に没頭できるはず」という。
今回は2度目のバイオセルロース搭載だ。2017年日本発売のAuteurを嚆矢とし、この特別な振動板の使いこなしに没頭するなかから、“Atrium Damping System”が生まれている。
では、試聴に入ろう。私にとってもバイオセルロースヘッドホンは、MDR-R10以来、久方振りだから、たいへん楽しみだ。試聴の前にケーブルとイヤーパッドを選択する。
ケーブルは、アンバランスとバランス型が準備され、購入時に選択可能。バランス型はモニター的な情報量指向であり、音楽性の観点からはアンバランスが好ましいと聴いた。また付属のユニバーサルパッドに比べ、オプションのラムスキンパットが付け心地、音質共に好ましかった。音源はPCを使い、USB DAC/ヘッドホンアンプはコルグ「Nu-1」だ。
『モーツァルト: 交響曲第41番《ジュピター》オイゲン・ヨッフム指揮・ボストン交響楽団』(DSF 2.8MHz/1ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
Atriumで聴けたのは、ひじょうに上品で上質な
《ジュピター》であった。ヨーロッパの伝統を身に着けたヨッフムが、アメリカの代表的なオーケストラを振るという演奏史的な面白さが聴ける、たいへん細やかな部分までの目配りが行き届いた名演だ。
音の立ち上がり/下がりが敏捷なAtriumで聴くと、音進行が実にヴィヴットで、解像度の高さとナチュラルさが高次元で両立していることが分かる。溌剌とした、弾力感のある弦、美しい管楽器……。強全奏でも質感がしなやかで、楽器の情報量も多い。特に101小節からの歌謡的なメロディの歌いが素敵だ。
ヘッドホンリスニングならではの音場再現も面白い。この録音は第1ヴァイオリンが左、第2ヴァイオリンが右の古典的な両翼配置だ。このステレオ配置ならではの鮮烈なるセパレーション再現は、まさにヘッドホンの独壇場。鮮やかな対比感はスピーカーリスニングでももちろん堪能できるが、ヘッドホンだから左右のセパレーションはより強調される。ステレオ初期にて、これぞステレオだという堂々とした主張がAtriumで聴けた。
『ライヴ・イン・ウィーン ジョン・ウィリアムズ指揮、アンネ=ゾフィー・ムター、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団』から「レイダース・マーチ」(96kHz/24ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
Atriumの音色再現性は、素晴らしい。ここでは、映画音楽におけるウィーン・フィルの特別な音が味わえた。ハリウッドの映画曲でも、ひじょうにウィーン・フィルらしい、豊穣なるサウンドにて再生。すべらかで柔らかいのである。木管も弦も、ウィーン・フィルならではの典雅な美音。ムジークフェライン・ザールのソノリティの中に音全体を包み込み、その総和としての響きを実にしなやかに、麗しく聴かせている。
オーケストラが持つ暖かさ、柔らかさ、潤い感……などのヒューマンなテクスチャーが、ジョン・ウィリアムズのスコアの持つ不気味さや迫力という質感に加え、華麗さ、エンタテインメント性……という、わくわくするような感情も呼び起こしている。このように古典的、そしてアナログ的なサウンドの特徴を、Atriumはたいへんていねいに聴かせてくれた。
低域の揺るぎない剛性感の上に、ブリリアントにして、柔らかく豊かな音色のウィーン・フィルのトランペットが突き抜ける。中間部のホルンとチェロの合奏は音色が見事に溶け合い、実に濃密で、まろやかだ。柔らかくゆったりとした感触でありながら鮮鋭、という二律背反を持つ、ウィーン・フィルの魅力をAtriumはたっぷり堪能させてくれた。
『ショパン:夜想曲全集 ヤン・リシエツキ』から「3つの夜想曲 作品9-第1番 変ロ短調(第1番)」(96kHz/24ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
これほど感情豊かで、ニュアンス豊か、心に突き刺さるようなノクターンが聴けるとは。ものすごく上品で上質な演奏だ。悠然としたテンポにて、音符のひとつひとつ、些細なアーティキュレーションに魂が籠もり、ロマンの香りがヘッドホン音場に拡散する。途中で止まってしまうのではないかと思えるほど、ゆっくりとした弱音の中にダイナミズムを込めた、まるで宝石の様な輝きだ。
ピアノの響きがたいへん美しく、直接音すら響きの中にあり、間接音がそれを取り囲むという音の構造が、Atriumではこと細かに聴けた。ショパンの世界観にふさわしい美的な響きだ。Atriumはピアノの剛性感とその響きの美しさ、そして演奏のロマンの極致的な感情の揺れを、リアルに、しかもバランスよく再現してくれた。音楽的なボキャブラリーの多さが印象に残った。
『Feel Like Making Love/Night Crawler ボブ・ジェームス』から「Feel Like Making Love」(96kHz/24ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
80歳を超えたボブ・ジェームスの最新作。これまでのソロ/Fourplayでの代表曲をセルフ・カバーしたスタジオ・アルバムだ。最新録音だけあり、きわめてクリアー。センターに位置するボブ・ジェームスのフェンダー・ローズの音が上質で、伸びがいい。エレピらしい音色の機微と、即興的なフレーズに立ち登る個性的な香りがヘッドホン音場に漂う。
Atriumはアーティフィシュアルな色気の再現が上手い。ベースやドラムスなどのバンドの音像は安定しているのだが、フェンダーローズだけが浮遊し、音像が左右にダイナミックに振られる、セパレーションの優秀さが、都会的な怪しい雰囲気を醸成している。安定感と不安定感の対極に、音場のアートが感じられる。音楽が乗ってくると、ベース音階もダイナミックになる。後半にはフェンダーローズも安定した音像となる。色気と都会的なチャーミングさに、Atriumの表現性を聴いた。
『Lady In The Balcony:Lockdown Sessions エリック・クラプトン』から「Tears in Heaven」(96kHz/24ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
ロックダウンでコンサートが中止になり、代わりに小編成で歌ったライブ。まず定位の確実性。ギターがセンターに位置し、ベースとパーカッションが中央から右にかけて、左側にキーボードというコンボの配置が明瞭だ。小編成の音場ならではのクリアーな見通しが清々しい。その中で、アコースティックギターが重々しく、その胴鳴りと共振が空気を震わせているのが、リアルに伝わってくる。
エリック・クラプトンのヴォーカルからは年齢なりの渋さと男の色気が感じられ。そのヴォーカルに絡むギターのオブリが有機的だ。左側に位置する、キーボードの艶も心に染みる。Atriumで聴くと、この曲の持つ、“子供への鎮魂歌”という情感的な部分がより感じ取れる。
『Diana Panton,A Cheerful Little Earfull』から「It's a Most Unusual Day」(DSF 5.6MHz/1ビット、e-onkyo musicからダウンロード)
ダイアナ・パントンはカナダの女性ヴォーカリスト。カナダはダイアナ・クラール、エミリー・クレア・バーロウ、ホリー・コール、ソフィー・ミルマン……と女性ジャズシンガー王国だが、中でも、ラブリーでコケティッシュな質感、豊かな感情表現では、ダイアナ・パントンの右に出る者はいない。
Atriumでは、そんなダイアナ・パントンの声の独得のチャームが豊かな情報量と情緒量を伴って、たっぷり聴ける。気品を感じる清楚で可愛い声、爽やかな色気感が再生のポイントだ。ほとんどノンヴィブラートなのも、清潔さに通ずる。本曲は「東日本カーオーディオコンテスト」の課題曲に選ばれている。それだけオーディオ的な音楽的なチェックポイントが多いということである。
Atriumでは、ダイアナ・パントンがまさに眼前で歌っているかのようなイルージョンを感じることができる。前方定位ではないにも関わらず、眼前感があるというのは、技術的には、微小信号までの再生に優れ、ダイアナ・パントンのラブリーな情感再現の機微をリアルに再現できるからだ。
時間軸的に正確に再現できるAtriumでは、ミクロで分析すると、ダイアナ・パントンの声が清涼な主部、次に掠れる語尾……という順番で進行していることが、明瞭に分かる。この後半のかすれ部分がセクシーだ。と言っても濃厚なものではなく、すがすがしい。「It's a Most Unusual Day」の“Most”と“Unusual”のアクセントと抑揚が特に可愛い。
こうした歌手の特質を掬い取る表現力の多彩さがAtriumの持ち味だ。右チャンネルのドン・トンプソンのピアノの玉を転がすようなヴィヴットな弾けも、愉しい。コロコロと軽妙にキーボードを駆け巡る様子が、耳の快感として聴けた。マットのピアノもとてもラブリーなのである。
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ひじょうに音楽性が豊かなヘッドホンだ。大編成、ピアノ独奏、クロスオーバー、男声・女声ヴォーカルと多数の音源を聴いたが、その音源の、そのアーティストが持つ音楽的な特質を、陰影も含めて、きわめて豊かなボキャブラリーで、ていねいに再現してくれた。それは好きなアーティストが、より好きになれる愛情に満ちた表現力と換言できよう。私の記憶にあるMDR-R10との共通性も感じられたが、現代の多情報量音源への対応力は圧倒的であった。
「ポタフェス2022 仙台」「ヘッドホン祭2022 秋」で、Atriumの音を体験しよう!
ブライトーンでは、今週末、来週末に開催されるふたつのイベントに出展する。そのブースは以下の通りで、現場ではAtriumのサウンドを実際に体験可能だ。それぞれのイベントに参加予定の方は、ぜひブライトーンブースにも足を運んでいただきたい。
「ポタフェス2022 仙台」
●日時:9月10日(土) 12:00〜18:00(最終入場17:30)
●会場:仙台駅前EBeans 9Fイベントスペース
●入場料:無料(事前登録制) → https://potafes.com/ticket.html
●ブライトーンブース:イベントホール【D6】
「ヘッドホン祭2022 秋」
●日時:年9月18日(日)11:00〜19:00
●会場:中野サンプラザ13F / 14F / 15F 全フロア
●入場料:無料(約1,500名/事前登録制)
→ https://e-ve.event-form.jp/event/36143/HPFES2022A?g=entry
●ブライトーンブース:13F コスモ⑦