マランツは1950年代初頭に誕生し、すぐさま優れた真空管アンプで名声を獲得した、オーディオ史上屈指の名ブランドである。創業から60年をはるかに超え、この間、何度かの体制の変遷があったとはいえ、依然として高級オーディオ機器ブランドとして活躍しているのは素晴らしいことである。
マランツの主力は創業当時からアンプに代表されるエレクトロニクス製品だ。そしてCD誕生とともに、デジタルオーディオ機器もまた、マランツ・ブランドにとってひじょうに大切な製品となっていった。
今回の「つくりては語る」では、この長い歴史を誇る名門ブランドにおいて最新のデジタル製品に関わる、サウンドマネージャーの尾形好宣さんと、エンジニアの河原祥三さんにご登場願ったのであるが、お二人の話に入る前に、マランツとデジタルオーディオ機器との関係について、予備知識的に簡単にご説明しておきたい。
1982年、世界に先駆け日本でCDが誕生した。開発の中心を担ったのは、フィリップスとソニーで、両社のCDプレーヤーの第一号機はいまや伝説的な存在になっている。当時のマランツはフィリップスの傘下にあり、このフィリップスの第一号機は日本ではマランツ・ブランドのCD-63として発売された。以来、マランツはフィリップスとの関係を活かしCDプレーヤーを多数輩出、優れた音質により、デジタルオーディオ機器のトップブランドとしての地位を築いたのだった。
1999年のSACD誕生に際しても率先して製品を展開、そして2016年には、ついにマランツ・オリジナルのディスクリートDAC(D/Aコンバーター=デジタル/アナログ変換器)「MMM=マランツ・ミュージカル・マスタリング」を開発しSACDプレーヤーに搭載、高い評価を獲得して現在に至っている。
河原氏はその音色に惚れて学内オケでヴィオラを担当。尾形氏はアナログレコード育ち。CD再生機は高校時代に入手
河原さんは、このディスクリートDAC、MMM開発に携わった重要人物の一人。まずはそのご経歴からうかがっていこう。
株式会社ディーアンドエムホールディングス
GPDエンジニアリング
河原祥三(かわはら・しょうぞう)氏
1979年生まれ。埼玉県川口市出身。東京工業大学・大学院卒(電子物理を専攻)。大学のオーケストラでヴィオラを担当。目立たないパートだが、ご本人はメロディを弾きたかったとか。マランツ(D&M)には2007年に入社し、AVアンプやBDプレーヤーなどの設計に従事。そして2015年に念願のHiFiコンポーネントの設計部門に異動し、最初に担当したのが「SA-10」という。なかでも独自のディスクリートDACであるMMMは、フィリップスの1bitビットストリームDACの開発者ライナー・フィンク氏(現・D&Mヨーロッパ)と、検討を重ねながら練り上げたものとのこと。
河原 「学生のころから音楽が好きで、ギターを弾いたり、自然とオーディオにも興味を持つようになりました。最初のスピーカーは自作システム。アンプはキットを買ってきて組み立てました。私が生まれたのは1979年ですから、音楽を聴き始めたころはすでにCDの時代に入っていましたので、ソース機器はポータブルのCDプレーヤーでしたね。
音楽やオーディオが好きだったので、それとの関わりのある電気系ということで、東京工業大学工学部で電子物理を専攻し、大学院では太陽電池やカーボンナノチューブなどの研究を行なっていました。大学にはオーケストラがあって、ヴィオラの、ヴァイオリンともチェロとも違う中間色の音色がいいなあとずっと思っていたので、入団してヴィオラを担当することになったんです。いまは弾いていませんけれど、いい経験でした」
ヴィオラはオーケストラを内側から支える大切な役割をはたしている。表立って目立つ機会は少ないが、内声を担い、音を刻んでビートをオケに供給することも多い。
河原 「刻みは私はあまり好きではありませんでした(笑)。やっぱりメロディを弾きたいじゃないですか。しかし、メロディを弾くことがそれほど多くなくても、ヴィオラの音色の風合いが好きなんですよ。
大学院修了後、はじめ国家公務員を目指しましたが、省庁を巡っているうちに、逆に自分の好きなオーディオをやりたいという気持ちが大きくなって、2007年にD&Mに入社したんです。
でも最初は単体の高級オーディオ機器をやらせてもらえなくて……ようやく希望が叶ってハイファイチームに入ることができ、そしててがけたのがMMMです」
マランツの製品づくりでもっとも特徴的でもっとも重要な役割を担っていると言えるのがサウンドマネージャーの存在。サウンドマネージャーはすべてのオーディオ機器の音質に対する責任がある。現在その重責を引き受けているのが尾形さんだ。
株式会社ディーアンドエムホールディングス
GPDエンジニアリング
サウンドマネージャー
尾形好宣(おがた・よしのり)氏
1970年生まれ。東京都江戸川区出身。中学2年生の頃にミニコンポを買ってもらい、FM誌のオーディオ特集を愛読していたことからオーディオに興味を抱く。武蔵工業大学(現・東京都市大学)電気電子工学科を卒業した1995年に日本マランツに入社し、約6年間CDプレーヤーの設計に従事する。2001年には商品企画に異動し、2007年から3年ほどアメリカに駐在、日本の商品企画との橋渡し的な仕事を担当する。帰国して数年後に、前任者・澤田龍一氏から指名され、約1年間の引継ぎ期間を経て2016年春にサウンドマネージャーに就任し、現在に至る。
尾形 「私は1970年生まれで、河原とは違い、オーディオに興味を持ったときの主要な音楽ソースはアナログレコードでした(笑)。CDはすでに誕生していましたが、中学生にはなかなか手が届くものではありませんでしたし。CDプレーヤーをやっと入手したのは高校生のときだったと思います。武蔵工業大学(現・東京都市大学)工学部に進学し、電気電子工学科でプラズマガスの研究を行ないました。大学を卒業するとき、好きなオーディオの仕事がやりたいと思って、1995年、日本マランツに入社しました。
幸い、最初からオーディオ機器の設計に携わることができて、CDプレーヤーを担当しました。ちょうどドライブメカニズムがスイングアームからリニアトラックの3ビーム式に移行するころですね。もちろん当時はフィリップス製のメカを使っていましたし、DAC素子もフィリップスです。
その後商品企画に異動し、2007年にはアメリカ勤務となります。この間、2002年にはデノンと合併するかたちでD&Mに会社が変っています。2010年に帰国、今度はネットワークプレーヤーのアプリ開発などを経て、2016年にサウンドマネージャーになりました」
マランツのいわば「顔」であるサウンドマネージャーに、尾形さんはどうやって就任したのだろうか。
「何か、前任者の澤田龍一のメガネに適うものが私にあったのかもしれませんが、澤田から指名されて、これは大変なことになったと思いました。でも、とてもやりがいがある仕事ですから、身の引き締まる思いがしましたね。それから1年間、澤田の元でサウンドマネージャーとしての勉強をして、2016年に正式に就任しました」
ディスクリートDACを自社開発することで音質調整の自由度が格段に向上
ディスクリートDACと簡単に言うが、その方式を採用しているオーディオメーカーはいまのところごく少数派である。多くは半導体メーカーが開発した汎用のDAC素子を使用しているのが現状だ。しかも、マランツのような価格帯の製品でディスクリートDACを搭載するデジタル機器は、私は他に例を知らない。
尾形 「ディスクリートDACを開発した背景にはいくつかの理由があります。ひとつには汎用のDAC素子の選択肢がかつてに比べて非常に少なくなってしまったことが挙げられます。フィリップスはとっくにこの分野から撤退していますし、現在ハイエンドオーディオ機器に搭載できる汎用DACを製造している主要なメーカーは2〜3社程度ではないでしょうか。
また、マランツは以前からデジタルフィルターを自社で開発していますし、アンプ回路ではディスクリートモジュールが大きな特徴となっている。ディスクドライブメカニズムも自社でチューニングができる。つまり、DACの変換回路だけがわれわれがいじれないブラックボックスとなっていたのです。それは高音質を追求するオーディオメーカーとして歯痒いところでした。やはりすべてを自分たちの手で開発したい。そういう思いがディスクリートDACの開発に結びついているのです」
河原 「ディスクリートDACを開発すると言ってもいくつかの方式があります。われわれが注目したのは、元フィリップスのエンジニアで現在はD&Mヨーロッパに在籍しているライナー・フィンクの、PCM音源(CD等に採用されているマルチビット方式のデジタル信号)をDSD(SACD等に採用されている1ビット方式のデジタル信号)に変換すると音がいい、という意見でした。
また、1ビット方式のメリットは、アナログ変換回路がシンプルであるというところにもあり、ディスクリート方式が実現しやすいということも追い風となりました。いっぽうデメリットも当然あって、ひじょうに高速な回路となりますから時間軸精度にはとてもシビアになります。ノイズフロアーも高くなりますので、ノイズ処理にも細心の注意が必要。開発過程でそのデメリットを克服し、そのうえでやはり1ビット方式の音質的なメリットが認められたので、MMMはDSD信号をアナログ変換する方式に決めたのです。
こうしてD/Aコンバーターを自社開発することで、かつてとは比べ物にならないくらい音質調整の自由度が上がりました。また、デジタルフィルターのアルゴリズムといったデジタル信号処理のノウハウは、尾形が申し上げたようにマランツには豊富な蓄積がありますから、PCMをDSDに変換するプログラム、あるいはDSDをアナログ信号に変換するパラメーターなど、ソフトウェアによっても自由に音質をコントロールできます。これもディスクリートDACのとても大きなメリットだと思いますね」
1ビットDACの嚆矢となったのは1987年に登場したフィリップスのビットストリームだが、この方式とDSDはどのような違いがあるのだろう。
河原 「ビットストリームとDSDには本質的な違いはないと思います。ただ前者が登場した時代は、CD全盛期でしたので、D/A変換で言えば、主に44.1キロヘルツ/16ビットのPCM信号をメインターゲットにしていればよかった。そこが現在のDSDと違うところでしょう」
尾形 「ビットストリームに関してもマランツは豊富なノウハウを持っています。その技術は、今回のMMMにも大きく活かされていると思いますね」
SACD/CDプレーヤーのトップエンドモデル
SA-10
2016年に登場したマランツの最上級SACD/CDプレーヤー(¥600,000)。それだけに、各部に最新かつ意欲的な技術とノウハウが投入されている。まずD/A変換回路には、独自開発による画期的なディスクリートDAC(MMM)を搭載(詳細は下記を参照)。またディスクドライブには、最新のオリジナル・メカエンジン「SACDM3」を搭載。制振性の向上などによりデータの読み取り精度も高められている。ハイレゾ音源の再生にも注力され、DSD11.2MHzとPCM384kHz/32bitに対応するUSB-DAC機能の搭載も特徴のひとつだ。
マランツ独自のディスクリートDAC“MMM”とは?
MMM(Marantz Musical Mastering)は、下の写真のように、MMM-StreamとMMM-Conversionで構成されている。
MMM-Streamは、従来のオリジナル・デジタルフィルターを進化させたもので、独自のアルゴリズムによりPCM信号を1bit DSDデータに変換し、後段のMMM-Conversionに送り出す役目を負う。この過程におけるデジタルフィルター、ノイズシェイパー/ディザー、レゾネーターは、ユーザーによる設定の切替えも可能で、24通りの組合せから好みに合う音色を選択できる。
MMM-Conversionは、入力された1bit DSDデータを、アナログFIRフィルターによってダイレクトにD/A変換する、シンプルな回路だ。
この両回路をディスクリート化したメリットは、MMM-Streamをデジタル基板に、MMM-Conversionをアナログ基板にと、分離配置が可能で、その間にアイソレーション回路を挿入することにより、相互干渉の徹底した低減が図れること。また使用パーツを自由に選定可能なことも大きなメリットだろう。
広い空間に音像が立体的に現われる高解像度な音を追求
では、MMMの音質的特徴を具体的にはどう捉えているのだろうか。
尾形 「MMMを最初に搭載したモデルは、2016年に発売したSACDプレーヤーのSA-10で、これは新しいマランツのフラグシップモデルを作ろうというプロジェクトでもありました。澤田やフィンク、そして河原といった何人もが開発には携わっています。MMMの音質的特徴は、一皮むけたような解像感の高いところにあると思います。変換処理のシンプルさが効いているのでしょう。また、音のチューニングがとてもやりやすくなりました。私は広い空間に音像が立体的に現われる高解像度な音を求めているのですが、MMMであれば、パーツの選択も自由ですし、より細かなところまで追い込むことができる。さらにモデルごとに最適な設計を施すことができますので、ディスクリートDACを自社で開発できたことは極めて大きな意味があったと思っています」
Brand New Product
最新モデル
SA-12
上級機「SA-10」に採用された、マランツ独自のディスクリートDAC“MMM”をはじめ、最新のオリジナル・メカエンジン“SACDM3”やハイレゾ再生に対応するUSB-DAC機能を搭載し、しかも価格が半分の30万円に抑えられた注目すべきSACD/CDプレーヤーだ(2018年発売)。主な違いは、オーディオ回路がSA-10のフルバランス構成に対して、アンバランス構成を採用していること。しかしながら、最新モデルだけにパーツなどがブラシュアップされていることは見逃せない。
では、マランツにおけるエンジニアとサウンドマネージャーの関係とは?
尾形 「音質に関してはあくまでもサウンドマネージャーの領域ですので、基本的に私が決めます。製品開発の流れとしては、どのような製品をつくるのかを、マーケットの意見を参考に商品企画が決め、それを技術が検討し具体化、そして音質検討をサウンドマネージャーが行なって製品が完成するということになりますね」
河原 「たとえばSA-10の開発がスタートしたときには、DACの方式は決まっていませんでした。そこで、いまできる最高のものとして、エンジニアサイドからMMMを提案し採用に至りました。エンジニアは商品企画やサウンドマネージャーと一緒になって製品の実現化に当たり、具体的な技術を提示するのが仕事。そんなふうに考えていただければいいと思います」
尾形 「音質検討は私一人の作業で、その段階でエンジニアに意見を求めることは基本的にはないのですけれど、河原とは音質評価に齟齬がありません。そうしたエンジニアと一緒に製品をつくる作業は楽しいことですね」
MMM搭載モデルは現在2モデルであるが、今後幅広い展開にも期待したい。マランツに新しい時代が訪れたことを強く実感した取材であった。
聞き手・構成 小野寺弘滋
河原氏が音決めに使う愛聴盤
アフターグロウ/サラ・マクラクラン
(アリスタ/BMGジャパン)
AYA オーセンティック・オーディオチェック
V.A.(ストックフィッシュ)
ドビュッシー:ピアノ作品集
アレクシス・ワイセンベルク
(グラモフォン)
パーフェクト・スカイ/アンドリュー・ヨーク
(GSP)
祈り/今井信子
今井信子(ヴィオラ)、ガボール・タカーチ=ナジ指揮
ティボール・ヴァルガ高等音楽院/アカデミーオーケストラ
(エプソン)
武満 徹:ノヴェンバー・ステップスほか
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
(フィリップス)
尾形氏が音決めに使う愛聴盤
AYA オーセンティック・オーディオチェック
V.A.(ストックフィッシュ)
ラスト・ライヴ・アット・ダグ
グレース・マーヤ
(ヴィレッジ・ミュージック)
カモミール ベスト・オーディオ2
藤田恵美(ポニーキャニオン)
バードランド
M. Sasaji & L.A. Allstars(ソニー)
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番
エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
(エクストン)