今回から2回にわたって、本連載初となる特別座談会をお届けする。近年配信サービスなどでもイマーシブ・オーディオが気軽に楽しめるようになっている。それらは、スピーカーで再生するのが基本ではあるけれど、一方でヘッドホンを使ってより手軽&没入感たっぷりに楽しむというアプローチもある。今回はイマーシブ・オーディオの様々な楽しみ方について3人の識者に語り合っていただいた。メンバーは投野さん、イマーシブ・オーディオ再生に造詣の深い麻倉怜士さん、長年イマーシブ・オーディオの録音・制作に関わられてきた入交英雄さんだ。(Stereo Sound ONLIE)

ーー今日はヘッドホンというデバイスをキーにして、イマーシブ・オーディオ(※1)がどのように楽しめるかについての意見交換をお願いしたいと思っています。麻倉さんのホームシアターに入交さんと投野さんと一緒にお邪魔して、スピーカーとヘッドホンでイマーシブ音源をお聴きいただきましたので、その印象を含めてお話いただければと思っています。ちなみに投野さんと入交さんは以前にもおつきあいがあったそうですね。

用語解説コラム ※1「イマーシブ・オーディオ」

画像1: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

 オーディオは、エジソンによる蓄音機の発明からの150年ほどの間に、その基本となる音声フォーマットを進化させてきました。最初は「モノーラル」で始まり、1957年から普及したLPレコードによる「ステレオ」が一般的になりました。次に、映画コンテンツ中心に前後左右の平面に音場が広がる「サラウンド」が一般化してきました。

 更に近年は上下方向も含めて、人が感じられる全方位の音再生が可能になり、音に没入する「イマーシブ」なオーディオフォーマットが広まりつつあります。ちなみに、イマーシブ・オーディオには他に「3D オーディオ」「スペーシャルオーディオ」「立体音響」などの呼び名もあります。(投野)

投野 前職でソニーに在籍していた時、2017年のInter BEEのジェネレックブースで、入交さんのイマーシブについての講演を拝聴したことがありました。そこではマーラーのシンフォニーなどのイマーシブ音源を再生されていたのですが、音場の広がりが素晴らしいと思いました。また講演の内容がすごく分かりやかったので、その場でお願いして、イマーシブを勉強していたソニーのエンジニアに向けてセミナーを後日設けていただいたんです。

 そこで色々なイマーシブの音源を聴かせていただいて、こういう世界があることを体験しました。22.2chのとても自然な空間の再現など素晴らしかったのですが、個人的に強く印象に残っているデモが「パンミックスを使わないイマーシブ」の音源でした。たとえば6重奏だったら6つのスピーカーそれぞれにオブジェクトサウンドを配置して音を聴く。そうすると音像がより鮮明になって、今まで聴いたことがないような明確な定位とともに、どこで聴いてもそこに奏者がいるような音場感を実現できたのです。

入交 そんなこともありましたね。もう8年も前になりますか。

投野 その頃から僕自身も、イマーシブについても色々学んできました。イマーシブ・オーディオの楽しみは、まずは空間の広がりが再現されることにありますが、逆に近距離の定位もイマーシブなら表現できると思っているんです。膝枕で聴く母親の子守唄といった再現もできたらいいなと。そんな風に、幅広いレンジの距離感の表現で音の楽しみ方を提供できるイマーシブ・オーディオのコンテンツにも期待しています。

ーーそのイマーシブ・オーディオについて、皆さんはどんな風に楽しまれているのでしょうか?

麻倉 イマーシブ・オーディオというか、サラウンド再生については40年以上取り組んできました。この部屋では現在、5.2.6システムでイマーシブ・オーディオの再生を楽しんでいます。今日はこの環境で入交さんがWOWOW時代に収録・制作に関わられたという東京交響楽団のイマーシブコンテンツを拝見しましたが、これには感動しました。

 これまでオーケストラのイマーシブ作品(ドルビーアトモス収録)では、ジョン・ウィリアムズがベルリン・フィル、ウィーン・フィル、サイトウ・キネンの3つのオーケストラを指揮したコンテンツが有名ですが、それらではイマーシブのための演出も感じるところがありました。

 しかしこの東京交響楽団のコンテンツは生々しさが違いますね。僕はこの作品の収録にも立ち会いましたが、やっぱり自宅で聴かせていただいて、ひじょうに自然なソノリティというか、豊かな空間感があって、なおかつ映像もついているので、個々の楽器の音、音源配置までよくわかりました。

 音がホールの響きを伴って、空間に消えていく。それもすごく自然に消えていくので、そういう意味ではこれまで聴いたことがない再現でした。よくできたイマーシブというのは、ピュアな空気の中に連れて行ってくれるのが魅力なんだと感じました。

入交 その節はありがとうございました。この作品はデモ用のため一般販売はしていないのですが、イマーシブ・オーディオとしても楽しんでいただける内容になったのではないかと思っています。

今回試聴で使ったイマーシブ・オーディオのソース&麻倉邸の主な再生システム

画像2: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

 今回の座談会は、麻倉さんの自宅オーディオルームで行った。入交さんが準備してくれたイマーシブオーディオコンテンツを、5.1.6のリアルスピーカーシステムで視聴していただき、その後ヘッドホン用の音源を順番に聴いてもらっている。その主なコンテンツは以前麻倉さんの連載で体験いただいたものが中心になっている。(Stereo Sound ONLINE)

●AVアンプ:マランツAV10
●プリアンプ:オクターブJubilee Pre
●パワーアンプ:ザイカ845、マランツAMP10、他
●スピーカーシステム:JBL K2 S9500、リンCLASSIC UNIK、他
●プロジェクター:JVCDLA-Z1
●スクリーン:スチュワートSNOMATTE
●ヘッドホン:ファイナル D8000 Pro Edition

麻倉 投野さんはソニーでヘッドホン開発を長年関わられていたわけですが、イマーシブ音源についても研究していたのですよね。

投野 定年までの5年間ぐらいはイマーシブの音源を色々聴いていましたし、興味もありました。ソニーでは、バイノーラル収音の実験は何度もしましたし、1998年からサラウンド再生のヘッドホン(MDR-DS5000など)を商品化していました。2019年には、ソニーのイマーシブ・オーディオ技術を応用した360 Reality Audioの導入にも関わりました。また、ソニーミュージックでのイマーシブコンテンツ制作に参加させていただいたり、日本オーディオ協会でのイマーシブ音源実験に立ち会ったりしたこともあります。今は独立して、具体的に物作りをしているわけではありませんので、後輩に頑張れっていうぐらいしか関わりが持てていませんが(笑)。

ーー入交さんはマルチチャンネルでの収録に長く関わられていたわけですが、ヘッドホン試聴で使われるバイノーラル(※2)技術についても研究されていたのでしょうか?

用語解説コラム ※2「バイノーラル」

 人が周囲の音を聞く時に、左右のふたつの耳の聞こえによって、発音源の位置を感じ取ることができますが、その仕組みが「バイノーラル」です。「バイノーラル録音」という、ヘッドホンでの試聴を前提としてダミーヘッドを使った録音による、特殊な音源の種類として語られることが多いと思いますが、実は我々が日常生活の中で聞いている音がそもそもバイノーラルなので、広義に捉えると実はとても身近な体験を示す言葉なのです。 

ちなみに、「バイノーラル=Binaural」は、ラテン語の「bini」=「ふたつの」と、「auris」=「耳」に由来し、人が両耳で音を聞くこと全般を指していますが、これは本来は「モノラル=Monaural」つまり「mono」=「ひとつの」と、「auris」=「耳」からの発展形を表す言葉でもありました。(投野)

入交 僕自身は2014〜15年頃から、放送や配信の2chでイマーシブ再生を楽しむ方法としてバイノーラルについての研究を始めました。最初はHPL(ヘッドホンリスニング)技術(※3)を使ってマルチチャンネル的な再生ができないかと考え、開発者と相談して5.1ch用のバイノーラルレンダラー(※4)を作ってもらいました。

 そこから仮想チャンネル数を増やせるという話になり、22.2chのレンダラーを作ってもらって、当時勤めていた毎日放送の「OTOBUTAI」という番組で副音声として放送しました。すると、視聴者の皆さんから大きな反響をもらったんです。

 イマーシブについては、リアルスピーカーで聴いた方が没入感は高いんだけど、といってもヘッドホン試聴を否定しているわけではありません。それぞれにあったスタイルで、どういう風に楽しむかは、今後追求していかないといけない課題だと思います。

ーー今日は、先ほどお話のあった東京交響楽団のイマーシブ・オーディオについて、麻倉さんのホームシアターでのリアルスピーカーによる再生と、入交さんがミックスしたバイノーラル音源を皆さんに聴き比べていただきました。その印象はいかがでしたか?

用語解説コラム ※3「HPLなどのバイノーラル方式」

 後述の通り、イマーシブ・オーディオをヘッドホンで楽しむためには、バイノーラルレンダラー(プロセッシング)技術を使って音声を変換している。このバイノーラルレンダラーには、「HPL」(Head Phone Listening)、「AUROヘッドホン」「ドルビーヘッドホン」「DTS Headphone:X」など様々な方式が提案されており、それによって音場空間の印象も異なってくるそうだ。麻倉邸での試聴では入交さんが製作してくれた「HPL」「AUROヘッドホン」「Apple Music用のドルビーアトモス」などを使っている。(Stereo Sound ONLINE)

用語解説コラム ※4「バイノーラルレンダラー」

画像3: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

 人がスピーカーから出た音を聞く時、音波は発音源から左右の鼓膜に届くまでに、部屋の壁面反射音や体と耳での回折などの影響を受けて、異なった特性に変化しています。空間で起きるこの特性変化を、電気的な信号処理によって実行し、ヘッドホンで再生することによって、仮想的にスピーカーから到来した音と同じ音を耳元で再生することができます。このスピーカー用のチャンネル信号から、ヘッドホン用のバイノーラル信号に演算で変換する機能を、「バイノーラルレンダラー」と呼んでいます。(投野)

麻倉 ヘッドホン用の音源については、複数の方式でバイノーラル化されていましたが、各方式によって音が大きく変化したのに驚きました。私はHPLの音声が素晴らしかったと思います。個々の音が明確に再現されるし、音像もしっかりしていながら、音場も感じられました。こういったレンダラー技術の進化によって、ヘッドホンによるイマーシブの楽しみ方もかなり広がっているということでしょうね。

入交 バイノーラル化した音源では、レンダラーの手法によって結構な違いがあるのは確かです。

麻倉 最初にバイノーラルではなく、シンプルにステレオ2chにダウンミックスした音をヘッドホンで聴かせてもらいました。スピーカーで聴く2ch再生は距離を伴って聴こえてくるけれど、ヘッドホンは鼓膜に近い場所から音が届くので、耳に刺さるような感じもありました。しかしバイノーラル化した音源ではその感じが和らいで、とても気持ちよく聴けました。

投野 このステレオ音源は、左右にかなり音が寄っている印象もあったのですが、ダウンミックスの際にはL/Rの外側の音源はそれぞれのチャンネルに足し込まれているのでしょうか?

入交 今回は、まず13.1chのマルチチャンネルマスターを作りました。その音源から、例えばセンターは3dBレベルを下げてL/Rに加えるといった処理を行っています。

 バイノーラルレンダラーで処理をする際には、サイドからの情報はL/Rに割り振るんですが、そこで元々のL/R情報はもっと前側に定位するようにシミュレーションしているんです。L/Rで鳴り分かれるといったことはなく、その間の空間に満遍なく音が散らされる状態を目指しています。

 その際には頭部伝達関数=HRTF(※5)を使って処理しています。そこでは、この音源が左前にあるとか右前にあるといった情報も織り込まれますので、距離による前後感が出てくるのです。

用語解説コラム ※5「頭部伝達関数/HRTF」

画像4: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

 音場の中で発せられた音が鼓膜まで伝達する経路では、頭部や耳介の影響による特性変化が発生します。例えば、左側から聞こえる音が右耳に届く経路では頭が遮蔽物となるので高音が減衰したりします。この変化を音の到来方向によって一定の規則性を持つ「関数」として扱い、音響の世界では信号処理演算に応用します。

 ちなみに、到来方向ごとで音の到達時間と周波数特性が変化しますが、水平方向に角度ごとでの周波数特性変化は概ね下図のようになります。もちろん、耳介、頭部、胴体の形状は個人差があるので、HRTFも個人差がある中での標準値ということでご理解ください。(投野)

ーーちなみに、先ほどお聴きいただいたバイノーラル音源では、投野さんはどれが好みでしたか?

投野 個人的に、本日試聴させていただいた中ではAUROヘッドホンが一番よかったですね。HPLも似たレベルですけれども、AUROヘッドホンの方がフルートからバイオリンまでの音色感がまとまっている感じがしました。

 今まで、バイノーラルレンダラーの違いを詳細に聴き比べたことはありませんでした。もちろん、ドルビーアトモスや360 Reality Audioなどのそれぞれの音は確認していましたが、同じ音源で比較するという機会はなかったんです。こんなに違いがあるとは、面白いですね。

ーーイマーシブ感の再現は、満足できましたか?

投野 イマーシブ音源だからこそ、楽器の位置がちゃんと分離して聴こえるんだということがよくわかりました。東京交響楽団の「ボレロ」の演奏も、楽器ひとつひとつが奏者の位置まで明瞭に感じられて、音楽の楽しみが広がったなと思うんです。

ーーそのようにして作られたバイノーラル音源を再生する場合、ヘッドホンの音作りでも何か注意することはあるのでしょうか?

入交 バイノーラル化の際には、ヘッドホンで聴いた時に、あたかもスピーカーで聴いているような錯覚を起こさせることを目指しています。ただし、ヘッドホンによって周波数特性といった違いもありますので、バイノーラル再生に向いたヘッドホンと、あまり得意ではないヘッドホンがあるということは感じています。

投野 ヘッドホンで一般的なステレオ音源を再生する時には、仮にヘッドホンの特性が完全なフラットなものだと、本来HRTFで上昇するべき中高域のレベルが不足で、音質が不自然になります。そこで設計上ヘッドホンのカプラー特性としては、中高域のレベルを上げることが一般的ですが、製品ごとに異なった調整がなされているのです。したがって、バイノーラルレンダリングでは、ヘッドホンの持つ特性との相性が出てくると思います。そこで、バイノーラルレンダラーとしては、一旦ヘッドホンの特性をキャンセルさせたうえでHRTF分の加算を行うことが望ましいとは思います。

 もうひとつ、ヘッドホンでは低音を体で感じることができません。ISO(国際標準化機構)の等ラウドネス曲線(※6)によると、聴覚感度は音圧が同じでも低い音の方が下がってくるんです。しかし体で感じる低音成分は、100Hzぐらいから下はむしろ強くなります。 

 そのため、ヘッドホン試聴だとフラットな音圧で再生しても低音のビート感が足りなくなるので、ちょっとだけ低音を上げ、体感部分を補正するような音作りを行うことがあります。その方法は会社によって異なります。

用語解説コラム ※6「体感低音の等価ラウドネス」

画像5: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

 人は、低音を耳だけでなく体全体で感じています。空気振動が体に音が伝わると、皮膚や内臓までが振動して「体感」することになります。10Hzというような極低音になると、聴感のラウドネスは大きく減衰していますが、替わりにこの体感ラウドネスが上がってきていることが分かります。(投野)

麻倉 そこはメーカーのノウハウということですね。

投野 設計者がトーンバランスを決める際に、音楽のビート感で合わせ込むなら低音は強めた方がいい。最近のベースのように正弦波に近い音だと、それで不自然でないんですが、コントラバスとかチェロのようなスペクトラムが広い楽器になると、音色的には少し違和感が出てくることもあると思います。そもそもスピーカーとヘッドホンではまったく同じ聴取体感にはならないので、設計者が音のどの要素を重視するかによってヘッドホンの音作りは変わってくるんです。

入交 ヘッドホンの音作りと、バイノーラル化する時のHRTFがマッチすればいいんですけど、うまくいかない場合もあるんです。そうすると、使うヘッドホンによっては何かおかしいぞと感じることもあります。

投野 HRTFも10dBくらい個人差の幅がありますので、そこを踏まえた補正をしておかないと、相性が合わないこともあるでしょう。HRTFを反映したフィルター特性を個人に最適化する技術も色々なものが提案されていますね。

ーーマルチチャンネル音源の作り方もそうですし、そこからどうやってバイノーラル化するかについては、まだまだ奥が深そうですね。

入交 バイノーラルレンダラーは、ものすごく深い世界です。例えばドルビーアトモスではどこにスピーカーを配置するかも決まっているので、僕みたいにチャンネルベースで音源を作っている場合は、その位置に音源を持っていって、必ずひとつのスピーカーから音が出るように設定しています。そこではスピーカースナップという機能があり、その音は指定したスピーカーからしか出ないような設定ができます。

 この機能を使わないで鳴らしたいスピーカーの近くに音源を配置すると、周辺のスピーカーも一緒に鳴ってしまうんです。定位自体には問題ありませんが、同じ音が色々なスピーカーから出るので、試聴位置で干渉を起こします。これはコムフィルター(※7)と言われる現象で、こういったことが起こらないように配慮しています。

用語解説コラム ※7「PAN MIX時のコムフィルターの問題」

画像6: イマーシブオーディオをヘッドホンで楽しむ魅力とは? イマーシブを熟知した3人に、アツく語り合ってもらった(前編)【ヘッドホンについて知っておきたい◯◯なこと 12】

※後編に続く

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