ソニーヘッドホンの名機「MDR-R10」が誕生するまでの経緯と、そこに込められた、今までにないヘッドホンを作りたいという開発陣の想いを紹介いただくシリーズの後編をお届けする。伝統的な天然素材の再検証や、まったく新しい技術の採用などなど、MDR-R10では様々なアプローチが採られてきたことがお分かりいただけただろうか。そのうえで、オーディオ機器として重要な音質はどのようにして決められたのか、最後はその点についても語っていただこう。(StereoSound ONLINE編集部)
ヘッドホン:ソニー MDR-R10 ¥360,000(生産終了。発売当時の価格)
●使用ユニット:50mmドーム型バイオセルロース振動板●インピーダンス:40Ω●音圧感度:100dB/mW(1kHz)●定格入力:300mW●再生周波数:20Hz〜20kHz●質量:400g(コード含まず)
§8 フラッグシップモデルの開発 その3
欅材の筐体、バイオセルロースの振動板、ラムスキンのイヤパッド、シルク編組のコードなどの天然素材に始まり、様々な先進素材による機構構造の開発検討に進んだMDR-R10(以下「R10」と略記)ですが、本稿では最終段階の仕上げとしての調律の工程で取り組んだことのいくつかと、最終的に「R10の製品化がもたらしたものが何だったのか」という私の想いをご紹介させていただきます。
5)筐体のインシュレーター構造
筐体の良質な響きを最大限生かすために、ドライバーおよびハウジングとバッフル板の筐体ブロックを音響的に他の機構部品から独立させることが必要と考えました。そこでR10では筐体ブロックと、ヘッドバンドまでの構造部品と連結するイヤーパッドフレームとの間に、インシュレーターを取りつけました。これは、当時のポータブルCDプレーヤーで採用されていた音飛び防止のサスペンション構造を応用したもので、音響ブロック外の部品の共振や外部ノイズが筐体の響きに混ざることを防いでくれる機構です。
6)欅の大容量ハウジング
筐体の材料に欅を採用したことは前述のとおりですが、これを最適な形状や仕上げに調律し、これを量産可能にまでする過程も、まさに私にとっては未知な世界でした。それは驚きと無謀な挑戦の連続だったと今になって思います。
そもそも木材は伐採直後の含水率は数十%あり、これが乾燥していく過程で収縮を起こします。欅の生木での含水率は50%を超えており、乾燥の過程で数%もの収縮を起こすのです。しかも、板目(年輪の円周方向)、柾目(年輪の径方向)、長手(繊維方向)で収縮率が異なるために、乾燥の工程の中で割れてしまったり、変形してしまったりということが普通に起こります。
また、同じ欅の木材であっても、産地や日当たりなどの立地によって、木目の入り方は大きく変わってしまいます。ヘッドホンのような樹脂成型部品を中心とした安定的な工業材料を扱ってきた私にとっては、これは驚きでした。そのように材料の見極めには長い経験が必要なので、木材の調達には「目利き」と呼ばれる専門家の職人がいるのです。
そこで目利きのおじさんには、R10の欅材料の選定に関して多くの注文を付けさせていただきました。
・日本の中部から東北地方に自生する欅
・樹齢200年以上
・芯に近い赤身の無垢材
・木目の間隔が5mm以下
ここまで指定することで初めて、見た目の木目が揃うだけでなく、音響的な均一性も得られたのです。
また、筐体としては300ccという大容量の設計になっています。当時の大型のヘッドホンでも筐体容積は100cc前後のものが一般的でしたが、この容積というものは音響的にボーカルや楽器の響きの要となる周波数に大きな影響を持っており、またコンサートホールの広がり感や臨場感を実現するために、この大きさが最適だと考えました。
この大容量ハウジングのデザインは製品の存在感を決定づける要素であったため、デザイナーともいくつものスケッチを眺めたり、モックアップを試作して手に取ってみたりしました。最終的には音質的な配慮を含めて耳の傾斜と対向する円を配した曲面形状が選ばれました。
当時のヘッドホンデザインでは3D設計システムはまだ一般化しておらず、ソニー独自のFRESDAMと呼ばれる3次元CADシステムを駆使して造形を進めました。
次の問題は製造方法でした。一般的な木工加工で使われる「ろくろ」では円形の回転形状しか製造できず、求めていた3次元デザインは実現できないため、R10ではウッドのゴルフクラブを製造するメーカーや金型屋さんと協力して、製造方法からの開発を進めました。
現在では存在していない設備ではないかとも思いますが、「倣い旋盤」と呼ばれるマスターブロックをなぞりながら木材を加工する機械を見つけて、これで外形の粗取りをした上で、内繰りなどの3次元仕上げをするために木工NC加工機を調達して、ハウジング製造を実現したのです。
木質ハウジングの板振動特性と容積の空気振動の二つを最適化するため、厚みは平均で約5mmという薄肉設計をしてしまったこともあり、加工時の部品のホールド方法から木工NCマシンの使いこなしまで、加工屋さんにも多大な協力をいただいて、欅の筐体は完成したのです。
また、ハウジング内の吸音材には、バイオテック加工を施した真綿を採用しています。真綿はシルクの繊維を綿状にしたもので、一般的なグラスウールなどより落ち着いた音色を再現する傾向が感じられました。また、その真綿にバイオテック加工を施すことで、加工時の繊維形状を記憶させることができ、圧力がかかっても再び元にもどる回復性を持たせることができます。これにより、ハウジング内で吸音材を長期間ふくらんだ状態に保つことができ、かつ適度な密度を維持できるのです。その結果、きめ細かい吸音効果によって適度な残響効果を生むことに貢献しています。
R10の技術開発は、ここまでの1)〜6)で説明してきたように、すべての部材について、最高材質と最適な構造を追求することで進んでいきました。ここで、筐体で「響きを付加する」ということについて、私の考えをお伝えしておきたいと思います。
オーディオのセオリーの中で、「オーディオ機器は、その再生音に何も足さない、何も引かない」という考え方があります。このセオリーと、それに反するように思えるR10での筐体の響きを活かす考え方については、開発当初から社内の技術者の間でも議論されたことです。
しかし、考えてみるとスピーカーを再生する時に、もし無響室のように響きのまったくない部屋で音楽を聴くとしたら、それはとても潤いが少ない音色感を覚えてしまいます。そもそも、音楽録音のスタジオでも、その音の調整を行う部屋はモニタースピーカーの音に適度な残響が伴うように調整されているものなのです。そう考えると、ヘッドホンのように付加する音成分が少ない再生というものはある種無響室でのスピーカー再生に近いドライな音になりがちだったのではないかと思うのです。
とはいえ、そこに響きを付加する際には、良好なリスニングルームの音響調整と同様で、「如何に良質な響きを付加するか」という点が重要なのだと思います。
人の音楽の聴き方は様々で、たとえばモニターヘッドホンのように付加要素が少ない聴き方を必要とする場合もあり、逆に豊かな響きが付加されることが好ましい場合もあります。R10は、この後者の求める音の方向性、ヘッドホンに不足しがちだった要素を補完して音楽を楽しみたいお客様のためのひとつの帰結だったと私は思っています。
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ここまで、R10開発の技術内容を説明してきましたが、開発の最終段階ではこの技術開発の活動と並行して、オーディオ評論家の皆様にご試聴いただく活動も積極的に進めていました。菅野沖彦先生、柳沢功力先生、山中敬三先生、長島達夫先生、黛 健司先生、井上卓也先生、傅 信幸先生、麻倉怜士先生など、諸先生方のご自宅やソニーのリスニングルームで試聴いただき、頂戴したコメントについて改善するということを繰り返しました。
どの先生も、最初に「ヘッドホンは嫌いだ」というコメントから入るという洗礼の日々(!)でした。また、先生方は皆様個性的で評価する観点も様々であり、更に評価の言葉が含蓄に富んだ難解な表現をされる方もいらっしゃって、たいへんに悩まされたこともあります。
例えば菅野先生の場合、最初の段階の試作品の音を評して「ドイツ的な音だね」「バイオリンがグリュミオーの音ではない」などと表現され、「どこそこの帯域が強すぎるから下げて」というような具体的な指示はいただけなかったのを覚えています。加えて、「ドイツのカントン社のスピーカーの方向性」というヒントをいただいたので、私はそれからカントンのスピーカーを探して試聴しつつ世評を調べるといった活動も行いました。その中で、先生が指摘された内容を自分なりに理解して試作品を改善していくことで、自身での音評価のスキルも向上できたと思います。最終的に菅野先生からも試作品の音質でお褒めの言葉を頂くことができるまでになりました。
こうしてR10は1988年の末には最終仕様が確定し、先生方からは「従来のヘッドホンでは聴けなかった音がする」「スピーカーでは聴こえない音が聴ける」といった高評価をいただくことができました。そしてなんとステレオサウンド誌の1988年度コンポーネントオブザイヤー(COTY)を受賞できたのです。
ヘッドホンとして初めて、ステレオサウンド誌の「C.O.T.Y.」を受賞
ステレオサウンド誌では、その年(1年間)に発売されたすべてのオーディオ新製品を対象に、選考委員によって優れた製品を選考・表彰する「ステレオサウンドグランプリ」を開催している。
MDR-R10は1989年冬号(No.89)で行われた「C.O.T.Y.」(コンポーネント・オブ・ザ・イヤー、現在のステレオサウンドグランプリ)で、ヘッドホンというジャンルとして初めて受賞を果たした、記念すべきモデルとなっている。
当時の誌面では山中敬三さんが、「ぼくは個人的にはヘッドフォンはすきではないんだ。(略)しかしこの製品の音は、その好き嫌いを超えた魅力なんです」とコメントされており、いかにMDR-R10が評論家氏に驚きを持って迎えられたかがうかがえる。(StereoSoundONLINE編集部)
前述のように、それまでのヘッドホンはあくまでもオーディオアクセサリーであり、コンポーネントとは認められて来なかったのでCOTYの受賞はなく、MDR-R10が初めてとのことでした。
これ以降、ヘッドホンはオーディオコンポーネントのひとつという位置づけを勝ち取ったわけですが、このことは世間でも驚きを持って受けとめられ、オーディオ誌に限らず多くのメディアで採り上げていただくことができました。
一例ご紹介すると、バイオセルロースの素材を共同開発した味の素株式会社さんの広告でR10を大きくご紹介いただきましたが、新聞の全面広告として扱われたことからも、それは大きなインパクトがあった出来事だったのだと思います。
思えば、R10の開発は「10倍の値段で売れるヘッドホンを作れ」という大曾根さんの言葉で始まったプロジェクトでした。
そもそも、ソニーオーディオチームには「大曾根語録」と呼ばれるポリシーが息づいています。たとえば、「何でも半分にできると信じろ」「サイズ等は中身に関係なく決めろ」「目標は単純明快にしろ」といったものがあります。ヘッドホンでの「価格10倍」の目標は、このような企業文化の中で発せられた言葉で、技術者の思い切った発想と行動を促すイニシアチブだったのだと今は思います。もちろん上司から無理難題を吹っ掛けられたと取れなくもないし、今ならパワハラと言われかねない発言かもしれませんが……。
しかし、この言葉があったからこそ、既存技術の延長線上でなく、まったく異なるアプローチで開発に臨めましたし、技術開発において「前例がない」とか、「この材料は対象外」といった先入観を取り除き、自ら可能性があると思えたものすべてに挑戦する意識が持てたのです。
大曾根さんからいただいた「10倍」という目標価格を超えて36万円という値付けにはなってしまいましたが、結果的にはこのような破格のヘッドホンとしてはよく売れました。生産終了までの間で当初の企画台数を大幅に超過してしまい、欅の材料の追加発注や取扱説明書の増刷を3回ほど繰り返す状況になっていたほどです。
このようなフラグシップモデル開発の成功は単なる1機種のビジネス上の目標達成という結果だけでなく、最終的にヘッドホンという商品世界と市場までを大きく変えることにつながったのではないでしょうか。
近年のヘッドホン市場を見ると、各社が様々なフラグシップモデルを次々と製品化して競っており、隔世の感があります。また、MDR-R10の開発された時代からは、音楽のトレンドやコンテンツ形態が大きく変わり、オーディオの技術も大幅に進化しています。
今後ともヘッドホンに関わる皆さんには、常に独自の発想で新しい技術の限界に挑戦し、未知なるヘッドホンの世界を広げ続けていってほしいなと願っています。
収納ケースからブックレットまで、高級モデルに相応しい仕様にも注目
本連載では、MDR-R10の筐体や振動板といったヘッドホンとしてのキーとなる素材を始めとする物作りへの細かな気配りについて詳しく紹介していただいた。
さらに製品の発売に際しては、本体を収納するケースには本革が採用され、豪華ブックレット(取扱説明書)も同梱されるなど、手にした時の満足度もひじょうに高い仕上がりとなっていたそうです。まさにヘッドホンというカテゴリーの新しい時代を拓いた製品と呼ぶに相応しい一品です。(StereoSound ONLINE編集部)