指揮者も演奏者もいない「無人オーケストラコンサート」が3月末に横浜みなとみらいホール 大ホールで開催された。楽団員ひとひとりの演奏を個別のマイクで録音し、それを演奏時と同じ場所に置かれたスピーカーで再生することで、誰もいないステージから生演奏のような音を再現しようという試みだ。客席に座ったり、舞台上に上がったり……聴く位置や楽器による響きや音圧の違いを聴き比べられる、そんな特別な音響体験を目指したこのイベントに麻倉さんと一緒に参加してきた。今回は、その印象を語っていただく。(StereoSound ONLINE編集部)
去る3月25日、横浜みなとみらいホール 大ホールでとてもユニークなコンサートが開催されました。指揮者も演奏者もいない「無人オーケストラコンサート」というもので、事前に収録した演奏を、ホールのステージ上に設置されたスピーカーで再生するというものです。
といっても、2chスピーカーでレコードやCDなどの音源を再生するといった同様なイベントはこれまでもありました。今回の「無人オーケストラコンサート」はそれらと何が違うかというと、フルオーケストラの61人の楽団員それぞれに1本ずつマイクを割り振り、61chすべてを96kHz/24ビットクォリティで録音していることです。再生時には、それらの個別の音を同じ位置に置かれたスピーカーで鳴らします。
さらに今回は会場内の反射音を6ch分収録しており、これをステージ後方の高い位置に置かれたスピーカーで再生することで、高さ感を演出していると言います。「無人オーケストラコンサート」は2020年12月に第1回が開催されていますが、これはその時の印象を踏まえて追加されたものです。
スピーカーはヤマハのアンプ内蔵モニタースピーカーで、ステージ上にはオーケストラとまったく同じレイアウトで並べています。左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、中央にビオラ、右にチェロ、コントラバス、ステージ中葉に木管、後ろに金管、パーカッション……という配置です。
さらに細かい気配りとして、ヴァイオリンや木管などの高音を受け持つ楽器には小型スピーカー、チェロやコントラバスなどの低音楽器は大きなスピーカーが割り振られています。楽器用61台とサブウーファー2台(ティンパニとグランカッサ用に追加)と、反射音再生用6台の計69台のスピーカーを使っているとのことです。
これらのスピーカーは基本的に客席側に向けて設置されていますが、ホルン用のスピーカーは、実際の楽器の音の出方に揃えるため、横の反射板に向けて音を飛ばしているそうです。また同じヴァイオリン用でも置いた場所に応じて高さを微調整するなど、音の抜け、広がりを阻害しないように気を配っていることがわかりました。
ステージ上のスピーカーは椅子の上に置かれた木箱に載せていますが、そこには「1st ヴァイオリン」「ヴィオラ」「オーボエ」……といった具合に楽器名と絵が描かれた紙が貼り付けてあり、どのスピーカーが何の楽器を再生しているかが分かるようになっています。
今回は公演前日の内覧会を取材しました。横浜シンフォニエッタ管弦楽団が事前に同じホールで収録した、『ストラヴィンスキー:バレエ組曲《火の鳥》(1919年版)より』などが再生されましたが、スピーカーからの再生音としては、生のオーケストラを彷彿させる臨場感がありました。
試聴する前は、弦と打楽器や金管との距離が違うから響きが不自然になるのではないか、各スピーカーの音は干渉しないか……といった心配がありました。また、そもそも演奏を収録する時点でホールの響きも含まれているのだから、それを同じホールで再生したらホールトーンが二重になって響きすぎるのではないかと心配しました。しかし、それは杞憂でした。
一階の中央で聴くと、生の奏者が眼前で演奏しているのと似た響きが聴けたのです。音色的には生の音ではなく、スピーカーから出ている音なので質感は異なります。しかしホールトーンの拡がり、奥行再現はきちんと感じられました。
ただし1階席の前方なら臨場感はかなりリッチなのですが、距離のある2階席で聴くと、音の飛びが不足していると感じました。これはスピーカーの指向性の問題でもあります。楽器は360度に音を放射しますが、スピーカーは正面放射のみなので、横放射で壁に反射させて響きを増やすといったことがないからです。
それは開催者も理解しているようで、先述の通り音の広がりを表現するために、アンビエンス再生用のスピーカーを追加しています。ここで反響音を再生することで、ステージ側からの広がりを演出しているのです。その恩恵は確かにありましたが、ステージから遠い2階席では効果が薄れています。今後はこの点をどうするかという対策も求められるでしょう。
面白かったのは、演奏中にステージ上に上がることができたことです。普通のコンサートでは観客が演奏しているステージ上を歩き回るなど到底できませんが、今回は無人だから大丈夫。すると、客席では聴いたこともないような個別の楽器、パートの音が間近に聴けたのです。
特に印象的だったのは指揮台に登った時です。左から第一ヴァイオリン、中央右にはチェロ、前方上方には木管、金管……と、パートの分離度がきわめて高く、前方180度のイマーシブサラウンドに包まれます。
通常のコンサートではお客さんは席にいて、ステージで演奏された音が、まとまった形で届いてきます。それはコンサートでの実演もそうだし、CDなどのパッケージメディアでも同じです。でも、音楽音響の原点は楽器それぞれのパートであって、それが重なることによって、音楽ができているわけです。
無人オーケストラではその構成要素、楽器それぞれがどんな音色を奏でているかもリアルに聴くことができました。例えばフルート用のスピーカーからはフルートの音しか出てこないし、オーボエも同様です。さらに指揮台に立つと、それぞれの楽器の音がパートごとにセパレートしながら、でも一体となってこちらに向かって放射されているのがわかります。そんな音に包まれるのは、まさに感動の瞬間です。
あの音を体験して、普段音楽を聴いているだけでは分からないことがすごくあることを痛感しました。その意味で重要な体験だったし、音楽の新しい切り口というか、新しい体験法があるんじゃないかと思いましたね。
似たような提案を、以前IFAのヤマハブースで見たことがあります。その時は、ネット経由で演奏データを伝送し、自動演奏ピアノで再現するというものでした。ピアノの両側にスピーカーを2台追加し、右側でチェロ、左でバイオリンを再生するという、ピアノ三重奏を再生していました。この音が生々しかったのです。
ステレオで音楽を聴く場合は、オーケストラであっても、アンサンブルであっても、最終的にミキシングして2chにまとめるわけです。ところが、このような手法であれば、ミキシングという工程がない。それぞれのスピーカーからはその楽器の音しか出てこないから、それが生々しさにつながっているのでしょう。
今回の無人オーケストラも、客席で聴けば通常のバランス、自然なミキシングで聴けるし、ステージに上がって楽器のスピーカーに耳を当てれば、その楽器の音だけが出てくる。ある意味でオーケストラを解析して楽しめることになります。その体験が本当に素晴らしいと感じました。
今回は139本のマイクを使用し、139chで収録していますが、実際にはその中の67chしか使っていないそうです。残りはコンテンツ制作(ステレオや22.2chの制作)での使用や、無人オーケストラの再生時に他のホールでもみらいホールの響きを再現するといった目的で使われるといいます。ということは、将来的には他会場への配信の可能性もあるでしょう。
これほど大規模でなくとも、室内オーケストラや室内楽ならスピーカー数も少なくて済み、リモートコンサートや教育目的に活用できるでしょう。「無人オーケストラコンサート」の、個々の音源位置から音を出すというまったく新しい試みは、音楽体験の新しい景色を拓いていくと確信しました。
https://yokohama-minatomiraihall.jp/concert/archive/recommend/2023/03/2766.html