菅野沖彦氏は、季刊『ステレオサウンド』誌の創刊2号(1967年)以来、四十数年の長きにわたり、オーディオ評論の第一人者として健筆を揮ってこられた。合計すれば数千ページになるはずだが、その中から個別の試聴リポート以外の、特に菅野沖彦氏ならではの視点から考察・執筆された記事を厳選し、集大成した別冊が、この『菅野沖彦著作集』(上下2巻構成)である。まずは、その上巻をお届けしたい。
その著作の中には、オーディオ評論の第一人者としてだけではなく、名演奏・名録音の誉れ高い数多くのレコードやテープを制作された録音制作家としても、永年にわたって活躍されてきた菅野沖彦氏の、含蓄に富む文章が豊富に収録されている。
その中から、菅野沖彦氏ならではの視点から書かれた印象的な一文を、いくつか拾い出してみよう。題して、《菅野沖彦・語録》。
●「……ぼくは、コンパクトディスクのあのグレン・グールドのゴールドベルク変奏曲で近来にない興奮の時を過している。一日一回は、あのコンパクトディスクを聴かないとおさまらない。時間がない時には、アリアと第一変奏だけでも聴く。ぼくに、これだけの音楽的満足感を与えてくれるのだったら、アナログレコードだろうとテープだろうとコンパクトディスクだろうと、レーザーディスクだろうと関係ないが、ぼくはグールドという演奏家が死の間際にデジタルレコーディングを残し、しかも、あのゴールドベルク変奏曲のような素晴らしい成果を記録したことに、大きなオーディオ的意義と喜びを感じている。
コンサート・ドロップアウトを宣言し、レコード録音に音楽家の生命をかけた、この孤高の天才にとって、このコンパクトディスクの成果は正当な報酬といえるだろう。新旧二つのグールドのゴールドベルク変奏曲を聴く時に、その演奏の違いと、録音の差に限りない興味を抱くものである。もし、この演奏が、レコードやテープでは発売されず、コンパクトディスクでしか聴けないとしたら、ぼくは、この一枚だけのために、二十万円を投じてCDプレーヤーを買っても悔いはないであろう。そして、このコンパクトディスクを、ぼくの知識と体験と、感性の全力を注いで、よりよい音、より好ましい音で聴く努力を惜しまないであろう。惜しむどころか、それがぼくのオーディオの楽しみである。……」
●「……オーディオ機器に限らず、機械の魅力の重要な要素の一つは、なんといっても、見て触って感じられる感覚である。大きな意味でのデザインといってもよいだろう。そして、機械美、メカニズム・ビューティというものの第一条件は、必然から生まれたものでなければならない。つまり、虚飾はこの世界では通用しないのだ。……」
●「……機械の美しさは、必然的に、その性能を追求したときに生まれる味わいだと思う。そして、そういう味わいを持つ機械は、性能も必ずいいものだ。オーディオ機器の魅力も、同じ次元で捉えることができると思う。デザインや質感、触感のよいオーディオ機器も、きっと優れた特性を持ち、素晴らしい音を出してくれるものではなかろうか。……」
●「……一流品とは、自称するものではなく、時間に耐え、厳しい批判をしのぎ、人に選ばれ、賞賛されるものだから、それを作り出す人々は不屈の精神の持主であると同時に、それを天職と感じ、大きな情熱と愛を持っている人や人たちでなければならないだろう。……」
●「……機械は現代の匠の道具である。昔からの、人と道具の関係と本質的にはなんら変ることがない。だからこそ、人が機械を使いこなすことが大切なのである。しかし、機械を作る側が、技術の進歩をただ軽薄短小と利便性の方向に向けるだけでは、道具も使いこなしようがない。人間の意志に反応せず、能力を反映しない機械は人間を駄目にする。誰がどう使っても、同じ結果しか得られない自動演奏機では、オーディオは趣味たり得ない。頭と手と経験が、差として現われないような機械では、現代の匠の道具とは言えないだろう。ハイテクの時代だが、将来、この技術をどう『レコード演奏家』の主体的で能動的な演奏行為に結びつけて機能させるかが問題で、今後の一大課題であろうと思われる。……」
いかがだろうか。別冊『菅野沖彦・著作集』を読んでみると、あなたにもきっと、心に残る一文が見つかるはずだ。
別冊ステレオサウンド『菅野沖彦著作集<上巻>』
価格:2,860円(税込)
●好評発売中!
■雑誌コード:67969-90
■ISBN:9784880734385
[主な記事内容] ※(初出誌)
●ハイ・フィデリティと無色透明
(季刊『ステレオサウンド』誌No.2 1967 Spring)
●私のマルチチャンネル・アンプシステム
(季刊『ステレオサウンド』誌No.6 1968 Spring)
●オーディオ装置拝見
(季刊『ステレオサウンド』誌No.9 1969 Winter)
●連載 ディレクター論
・第1回 ルディ・ヴァン・ゲルダーを語る
対談=岩崎千明/菅野沖彦
(季刊『ステレオサウンド』誌No.15 1970 Summer)
・第2回 クリード・テイラーを語る
対談=岩崎千明/菅野沖彦
(季刊『ステレオサウンド』誌No.16 1970 Autumn)
・第3回 ロイ・デュナンを語る
対談=岩崎千明/菅野沖彦
(季刊『ステレオサウンド』誌No.17 1971 Winter)
・第5回 ブルーナシュアーを語る
対談=岩崎千明/菅野沖彦
(季刊『ステレオサウンド』誌No.19 1971 Summer)
●マッキントッシュ・ラボラトリーにみるオーディオ・メーカーの本質
(季刊『ステレオサウンド』誌No.20 1971 Autumn)
●オーディオ評論のあり方を考える
(季刊『ステレオサウンド』誌No.28 1973 Autumn)
●オーディオ機器の魅力とは 魅力あるオーディオ機器とは
(季刊『ステレオサウンド』誌No.31 1974 Summer)
●オーディオファンからみたFMのたのしみと放送局への期待
(季刊『ステレオサウンド』誌No.32 1974 Autumn)
●オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ
インタビュアー=黒田恭一/井上卓也/坂 清也
(季刊『ステレオサウンド』誌No.38 1976 Spring)
●コンポーネントステレオ 世界の一流品
(季刊『ステレオサウンド』誌No.41 1977 Winter)
●レコーディング・ミキサー側からみたモニタースピーカー
(季刊『ステレオサウンド』誌No.46 1978 Spring)
●HiFiコンポーネントにおける《STATE OF THE ART賞》の選考について
(季刊『ステレオサウンド』誌No.53 1980 Winter)
●タンノイ研究(1)――名器オートグラフの復活
(季刊『ステレオサウンド』誌No.55 1980 Summer)
●タンノイ研究(2)――スーパーレッドモニター対クラシックモニター
(季刊『ステレオサウンド』誌No.56 1980 Autumn)
●タンノイ研究(3)――アーデンⅡ、バークレイⅡと管球アンプ
(季刊『ステレオサウンド』誌No.57 1981 Winter)
●タンノイ研究(4)――タンノイの最新プロ用モニター SRMシリーズを聴く
(季刊『ステレオサウンド』誌No.58 1981 Spring)
●タンノイ研究(5)――現代に甦るタンノイ・スピリット“GRF Memory”登場
(季刊『ステレオサウンド』誌No.60 1981 Autumn)
●タンノイ研究(6)――現代に甦ったオートグラフ
(季刊『ステレオサウンド』誌No.64 1982 Autumn)
●プロが明かす音づくりの秘訣
(季刊『ステレオサウンド』誌No.60 1981 Autumn)
●道具はすべて使い手に寄り添ってくれる
(季刊『ステレオサウンド』誌No.66 1983 Spring)
●クリスタルサウンドの響きにアイヒャーのニヒリズムを聴く
(季刊『ステレオサウンド』誌No.70 1984 Spring)
●音色から音場へ――変貌するアメリカンサウンドのイーストウェスト
(季刊『ステレオサウンド』誌No.71 1984 Summer)
●エグゼクティヴオーディオのすすめ
(季刊『ステレオサウンド』誌No.82 1987 Spring)
●あなたにとってのベストスピーカーとは
(季刊『ステレオサウンド』誌No.82 1987 Spring)
菅野沖彦氏のプロフィール
1932年9月27日東京生まれ。幼い頃から音楽が大好きで、卓上型の蓄音器でSPレコードによる音楽を聴くのが、この上ない楽しみだったという。長じて、録音制作の仕事に就きたいとの希望から『朝日ソノラマ』を出版する朝日ソノプレス社に入社し、録音、編集、マスタリングなどの仕事に長年従事する。その後、フリーの録音制作家を経て、オーディオ・ラボを設立。1971年から「オーディオ・ラボ」レーベルにて、今なお名演奏・名録音として名高い数多くのジャズレコードなどを制作・発売された。一方、オーディオ評論家として『電波とオーディオ』誌を皮切りに、多くのオーディオ専門誌に執筆。なかでも『ステレオサウンド』誌には創刊2号(1967年)から登場。以来、四十数年にわたりオーディオ評論の第一人者として活躍されてきたが、2018年10月13日に惜しまれつつ、逝去された(享年86歳)。主な著書は『オーディオ羅針盤』『音の素描』(音楽之友社)、『新レコード演奏家論』(ステレオサウンド)など。