※投野さん長女、あやかさんの耳の写真をお借りしました
§4 耳について考えよう
そもそも我々オーディオファンは、耳を入り口として音を聞いています。また、ヘッドホンは耳に装着するものなので、耳について私はちょっと詳しいんです。今回は、そんな「耳」についてのお話を。
といっても、オーディオファンの皆様に向けた記事ですので、あまり医学解説のようにならないよう、なるべくオーディオ観点を交えてのお話にさせていただきます。
私はソニーでヘッドホンの設計者でしたが、もうひとつ「耳型職人2代目」を名乗っていました。社内で正式な職種としてのそのような肩書があったのではないのですが、業務で耳型を採る仕事に携わっていたので、社内外に説明する時に分かりやすい名前が欲しくて、自らそう名乗ったのが始まりです。
さて、一口で「耳」といいますが、聴覚の器官は体内にも複雑な構造を持っています。我々が普段目にする外の部分に関しては、この記事では「耳介」と呼ばせてください。ここで私が「耳型」と呼んでいるのは、耳介の形をシリコンなどの材料を使ってコピーしたもののことです。
私が在籍していた当時、ソニーでは新しい装着スタイルのヘッドホンを検討するために多くの耳型を保有していて、装着に関連する耳介の部位寸法を測ったり、試作品の装着状態を見たりといった用途に使っていました。当時は、より多くの耳型を採るために、周囲の社員を片っ端から作業台に連行したり、海外営業の方が大勢集まる会議の時などで協力してもらうことも度々ありました。
人の耳介は形状が千差万別で、ひとつの機種で多くの人に最適なフィット感を提供するのは、なかなか難しいものなのです。例えば、下の画像のように、大きさや立ち方など、違いが大きいことはご理解いただけると思います。
あまり知られていないのですが、耳介の各部位には名称が付いています。ヘッドホンの設計者は周囲の人を見る時には、この部位の形が気になってしまいます。設計者の間では「目が大きい」とか「鼻が高い」といった顔の部位名称のように、「あの人は耳甲介腔が小さい」といった風に普通に交わされる言葉なんです。ぜひ皆様も覚えて使ってみてください。
しかし、耳介には「鼓膜を守る」とか、そういった役割はなさそうです。では、耳介はなぜこんなに複雑な形をしているのでしょうか? これは実は、人が音を聞いた時に、その音がどちらから来ているのか、つまり音の到来方向を感じ取るためだといわれています。
人は、音が来る方向によって、鼓膜位置で受け取る音の特性が変わるようになっているのです。これは、耳介の形状の影響が大きいのですが、頭全体や、胴体の影響もあります。この特性を音響の専門用語で頭部伝達関数(HRTF:Head Related Transfer Function)といいますが、到来方向について図示すると、下図のようになっています。
耳介の開いている方向からとその反対方向からでは、特に高音域でレベル差が大きいのが分かります。この角度ごとの特性変化や、左右両方の耳の間での到達タイミングの差などで、人は音の到来方向と空間の広がりを感じ取ることができるのです。人は、一人ひとりで耳介の形状は異なるのですが、HRTFも個人差が大きく、その個人差は10dBほどになります。
ステレオなど従来フォーマットの音源再生で、ヘッドホンによる定位感の再現には難しさがありましたが、最近のオーディオで「オブジェクト記録」と呼ばれるような立体音響再生では可能になってきました。音の信号ごとに付加された音源位置のメタデータを受け、HRTFによる音の特性変化を付加して再生することで、リアルに空間の広がりを感じられるようにもなってきたのです。
では、鼓膜に到達した音の信号は、どのようにして人間の脳に伝わるのでしょうか? 音の空気振動は、耳介と外耳道を含む「外耳」を経由して鼓膜を震わせ、更に「中耳」の骨を振動させた後に、「内耳」の中のリンパ液の波動になります。
ここで中耳と内耳の構造について、簡単に説明しておきたいと思います。外耳道に伝わった音の空気振動は、鼓膜を揺すり固体振動に変化したのちに、「ツチ骨」「キヌタ骨」「アブミ骨」の3つの耳小骨に順に伝わることで、大振幅/低駆動力の空気振動から、小振幅/高駆動力の固体振動へと、変換されていきます。自転車のギアチェンジを想像いただくと分かりやすいかもしれません。
アブミ骨に伝わった固体振動は、内耳の「卵円窓」という部位で内耳の中の「蝸牛」と呼ばれる渦巻状の管に満たされたリンパ液を揺することで液体振動として伝播してゆき、さらに蝸牛の中でとぐろを巻く「基底膜」を振動させます。基底膜は引き延ばすと35mmほどの長さがあり、入り口の卵円窓に近い部分が高音、奥に行くにしたがって低音に共振する、周波数分析の機能を持っています。
基底膜が振動し、膜上に並んだ「有毛細胞」の「動毛」を屈曲させることで、リンパ液内のイオンの働きで電気信号のパルスが発生します。こうして最終的に音が脳に伝わる構造になっているのです。内耳の構造について、この記事のスペースでその全容を記載することできないのですが、きわめて複雑な器官であることはご理解いただけると思います。
ところで、人が感じ取れる音の大きさのレンジは、一番大きい音と小さい音では約120dB(パワー比で1兆倍)にも及びます。このような広いダイナミックレンジの液体振動を、有毛細胞のケミカルな構造だけで電気信号に変えられるとは考えにくいと思いませんか?
人が目で光を感じる時であれば、網膜に入射する光の量は瞳孔の絞りの開閉によって制御されることで、広大な光のダイナミックレンジに対応しています。実は、耳にもこの瞳孔の絞りに相当する機能があるのです。
下図7の「鼓膜張筋」と「アブミ骨筋」のふたつの筋肉はそれぞれ中耳のツチ骨、アブミ骨につながっていて、大きな音が入った時には脳から指令を受けて固くなり、中耳の振動を制止するように働くのです。
また、内耳の中の有毛細胞には、細胞膜にある「プレスティン」という蛋白質の働きで伸縮する機能があります。ここでは中耳の場合と逆で、振動が小さい時には脳からの指令を受けて伸縮動作し、基底膜の振動を増幅させる働きもあるといわれています。
こうして人の耳は全体のシステムの中で、大きな音は抑制し、小さな音は増幅することで、聴覚の広いダイナミックレンジをカバーしているのです。
まとめると、人は外耳(空気振動)→中耳(固体振動)→内耳(液体振動)→脳(電気信号)と、複雑な信号変換を行って、「音を聞く」という機能を実現していることになります。
ではなぜ、耳がこのように複雑な構造の器官になったのか、不思議ではないでしょうか? この疑問への回答は、生物が辿ってきた進化の過程にあります。
生物の進化の中で、最初に魚類が水中での振動や移動を感じる器官を獲得したと言われています。魚に耳介のようなものは見えませんが、実は内耳はあります。水を伝わってきた振動が直接内耳の中の受容体を揺り動かすことで音を電気信号に変えています。
生物は、進化の過程でおよそ3億8500万年前に水中から陸上に上がってきました。そうなると今までの液体振動の音は聞こえなくなるので、耳を進化させてゆきました。「内耳」の構造をリンパ液で満たして残し、あごの骨を3本移動して「中耳」とし、更に必要な空気振動を効率的に集音する外耳道と耳介の「外耳」を加えたのです。つまり、水中での聴覚器官だった内耳の基本構造を流用しながら、「耳」を陸上での空気伝搬音が聞ける器官へと進化させていったのです。
こうした進化を経て、生物の耳は音量の大小、音程の高低から、音波の到来方向までも聞き取れるようになり、この機能を使って襲来する敵と獲物の位置やその大きさを推定することができるようになりました。また人は、その独自の進化の過程で「言語」を獲得して、音で周囲の人に複雑な情報を伝えことを可能にしました。更には「音楽」という表現手段を駆使して、音で様々な感情を表現することまでできるようになったのです。
我々がオーディオ装置を使って、その音に込められた情報や感情を享受できるようになった背景には、膨大な年月での奇跡的な進化があることを、とても興味深いと思います。