岩手県一関市にあるジャズ喫茶「ベイシー」を舞台にした映画『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』が9月18日に公開される。同店はオーディオファンの間でも有名で、ステレオサウンド別冊『ジャズ喫茶 ベイシー読本』もご好評いただいている。そんな「ベイシー」がどんな映像・音でスクリーンに再現されるのか、今回は自らもオーディオファンという星野哲也監督に、本作に込めた想いをうかがってみた。インタビュアーは山本浩司さんにお願いしている。(編集部)
山本 やっと劇場公開ですね(本作品は当初5月29日公開予定だったが、コロナ禍により9月18日に延期された)、おめでとうございます。
星野 ありがとうございます。
山本 ぼくはこの作品を2月に東京・五反田のIMAGICA第一試写室で、そのあと8月にオンライン試写で拝見しました。「ベイシー」の映画ですから「音が命」なのは当然ですが、最初の試写を観てこの映画の音のすばらしさに驚いたんです。IMAGICAの第一試写室は、日本でいちばん音のよい試写室だとは思いますが、この映画で再生される「ベイシー」の音、「ベイシー」よりもいいんじゃないかと思ったくらいで。ぼくは30年前に一度行ったきりなんですが。
星野 いやいやそんなわけないです(笑)。そういっていただけるとうれしいですが。
山本 公開される劇場の音がちょっと心配なんですよ。
星野 最初にアップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺で上映されますが、いい音で上映できると思います。大丈夫です。「ベイシー」の菅原マスターを撮るんだったら、絶対映画じゃなきゃダメだと当初から思っていました。「ベイシー」の肝は音、再現できるのは映画館でしょう。テレビのドキュメンタリーももちろん素晴らしいですけど、テレビのスピーカーでは難しいので映画にこだわりました。「ベイシー」の存在の大きさに見合うのは映画というフォーマットしかないと思ったんです。
山本 なるほど。矮小化された空間でこの映画を観てほしくないという監督の思いは確実に映画の中に息づいていると思いました。
まず音響面についてお聞きします。映画の中で、AKGのダイナミックマイクやノイマンの管球式コンデンサーマイクを立ててナグラのテレコIV-Sで「ベイシー」の音を録る場面が出てきますが、このステレオ収録されたテープ音源を元に5.1chにアップミックスしたんですか。
星野 いや、違います。いろいろなパターンがありますが、たとえばレコードを再生した音を録る時にノイマンのU87を5本使ったこともあります。
山本 ということは、ノイマンでマルチチャンネル用マイキングのツリーを組み上げた?
星野 そうです。フロント用に3本、後ろに2本を仕込んで。さらに中に7つのマイクを仕込んだシステムも使っています。これをうまく使うとルームトーンが立体的に収録できるんです。それをプロトゥールスを用いてハードディスク・レコーディングしています。
山本 ということはナグラで録ったテープ音源は使っていない?
星野 そういうことになります。もちろん同時にナグラは回っていて、その音源は今後なんらかの形で公開したいと思っています。ただし、ナグラのラインアンプの音がびっくりするくらいよかったので、そのラインアンプ経由でコンピューターにつないでいます。映画の中でナグラのテレコが7台積んでいるシーンが写っていたと思いますが、このラインアンプの音を絶対活かしたいと思って用意したんです。
山本 村上ポンタさんが「We want Miles」のLPを聴いているシーンとか、あまりの音の凄さに椅子からずり落ちそうになりました。
星野 そうですか、それはやはり「ベイシー」の音が凄いということですよ。しかしオーディオ評論家のヤマモトさんにそう言ってもらえるとうれしいなあ。それから、お店が営業中は大きなマイクは立てられないので、ピンマイクやガンマイクを使うことが多かったですね。もちろん録音用に時間をもらったこともあって、渡辺貞夫さんのライヴの日は、ピアノにアルテックの鉄仮面を使ったり、AKGのD25を2本、フォロホーンをアンビエントに仕込み、Electro-Voiceほか17ch使っての録音しました。
山本 なるほど、すごいこだわりですね。ところで当初から5.1ch収録は必須だとお考えだったんですか。
星野 ええ。この映画では、“ベイシーという場”を後世に残したいと思って制作したので、空間再現も含めた音を収めたかったんです。モノーラルではダメだと思っていました。
山本 冒頭で『雷鳴下の蒸気機関車』(1961年)のLPの音が鳴り響きますよね、あれも「ベイシー」のリンLP12で再生した音なんですよね?
星野 そうです。あのレコードは菅原マスターのコレクションではなく、ぼくが持参したものです。「ホシノ、おれはこんなレコード店ではかけないぞ。ジャズ喫茶なんだからよ」ってマスターには叱られたんですが(笑)
山本 あの音も凄くて。ぼくもLP12ユーザーなので「いいぞいいぞ!」って思って観てました。
星野 (笑)。最初に音の脅しを入れました。
山本 映像として必見なのは、阿部薫(サックス奏者)とエルヴィン・ジョーンズ(ドラム奏者)の演奏だと思いますが、阿部薫の映像は「ベイシー」で撮影されたものですか?
星野 いえ、「パスタン」という以前福島にあったジャズ喫茶で撮影されたものです。『暗い日曜日』という阿部薫のCDでは「ベイシー」で録音された音源を使っていますが、映像は撮っていなかった。
山本 エルヴィン・ジョーンズのライヴの音は、家庭用ハイエイトカメラの内蔵マイクで録ったものだそうですね。
星野 そうなんですよ。ハイエイトカメラで、しかも横から撮影したものなんですが、菅原マスターにはこの映画でいちばん凄いのはエルヴィンのシンバルの音だといわれてしまい(苦笑)……。
山本 凄い演奏は何で録っても凄いと言うことでしょ。
星野 ですね。あの映像は映画に絶対に入れたかったのですが、ハイエイト素材は当時最先端メディアでしたが今では過去のもので取り扱いがなくて。そこでネットオークションでハイエイト機材を落札して、自宅でテープからデータ化してIMAGICAに持ち込んだんです。何やってんだろうって思いながら(笑)。フィルムなどアナログだけは生き残っていますね。
山本 それにしても菅原マスターは、被写体としてたいへん魅力的ですね。ジャズな人、ジャズ者とはこういう人を言うんだなと。菅原さんの佇まいに惹かれて、彼の一挙手一投足から目が離せなくなります。撮影は5年かかったそうですが、一関まで何日くらい足を運んだんですか。
星野 月に2回は間違いなく行っていましたから、多分120日以上でしょう。でも1日いても2時間撮影できればいい方でした。
山本 最初はクルーを連れて行っていたけれど、それではすべての雰囲気が変わってしまったとか?
星野 ベイシーの魂が抜けちゃうような感じになって……。それは映像にも出ていると思うんですよね。やっぱり撮影側が幽霊のように紛れ込んでいないと、この店の雰囲気は伝わらないだろうと判断して、一人で行くようになりました。
山本 そうして通っているうちに映像を撮っている星野さん自身が「環境」になっていった。
星野 「ベイシー」になっちゃった(笑)
山本 “ベイシーになった”、うん、いい表現ですね(笑)。ところで、5年間通ってみて「ベイシー」の音に変化を感じましたか?
星野 「ベイシー」の音は、時代に合わせて変化しているんだと思います。菅原マスターもよく「俺の音は古くさくないよ」とおっしゃいますけどね。使っている機材は古いけれど、俺が出しているのは今の音だと。そこが菅原さんの信条というか、毎日毎日、何か研鑽を積んでいるんですよね。ただ、そこに気づかれるのが嫌なんでしょう。
山本 音の調子の悪いときに「ベイシー」に行くと、菅原さんは不機嫌だと居合わせた人に聞いたことがあります。
星野 そこは面倒くさいですよね(笑)。撮影時もチャンネルデバイダーの調子が悪いときがあったんです。ハンダの接触不良のようなんですが、ハンダを付け直してもよくならないとかで、ずっとその話を聞かされました。
インターネットで探せば? と思いましたが、さすがにあの時代の製品はそう簡単に見つかりません。しかも菅原さんは同じ製品じゃないとダメだという人ですからね。シュアーのカートリッジの針も、バックアップ用として家一軒分くらいの費用をかけて買って、そこから選別して使うという。
山本 やっぱり常人とは発想が違いますね。
星野 映画には収録できませんでしたが、タモリさんとふたりでしゃべっている時など、金言がぼろぼろ飛び出してきて、そのまま一冊の本にできると思いました。
山本 ところで、作品中に指揮者の小澤征爾さんとヴァイオリニストの豊嶋泰嗣さんのインタビュー映像が挿入されます。正直言ってこれらのシーンはやや唐突な感じがしました。お二人に出てもらいたかった理由は何だったのですか?
星野 「音とは何なのか」、これがこの映画の大きなテーマです。それを考えるうえで、クラシック畑の人にも話を聞かなきゃダメだろうと思ったんです。クラシックのミュージシャンは音をどう捉えているんだろう、ジャズの人たちと考え方がどう違うんだろうという点に興味があったんです。
余談ですが、映画に出てきた豊嶋さんのストラディバリウスは300年前のバイオリンだったのですが、撮影後に売ってしまったそうです。事前にそれを聞いていたので、舐めるように撮影しました。ここを広げるべきかどうかと思った瞬間もありましたが……。
山本 300年前のストラディバリウス? 購入するには億のお金が必要ですよね。
星野 億も億、大奥ですよ。
山本 大奥って(笑)。それからシェルマンの蓄音機やLPジャケットなどの拾い方も星野さんならではだと思いました。編集の田口拓也さんとの間で、「これは要るの?」といった話にはならなかったんですか?
星野 特に言われませんでした。事前に映画の中にすべてのメディアを入れたいという話をしていたので、納得してくれたのかも知れません。
山本 とおっしゃいますと?
星野 この作品には音楽のメディアは全部入れたかったので、SP、LP、ダイレクトカッティング、CD、SACDの音をすべて収録しました。さすがにデータファイルはありませんが。
山本 「ベイシー」はCDも再生できるんでしたっけ?
星野 CDプレーヤーはあるけど、つないでいないようです。音というものを取り上げる以上は、それぞれをビジュアルで説明する必要があったと思うのです。アナログレコードがCDより音がいいといっても、今の時代には唐突のような気もしなくはない。それならCDも映像の中にはいれなくてはならないだろうと。
山本 ところで、ぼく個人のこの映画のベストショットは、赤いバラを手前に菅原さんが電球を替えるシーン。あの場面は、構図も菅原さんも美しいですね。
星野 そうでしたか。うれしいです。
山本 撮影者の星野さんが完全に「環境」になっていますよね。そうじゃなきゃ、あんなに美しい絵はなかなか撮れないと思います。
星野 電気の流れる瞬間を撮りたくてやってもらいました。
山本 そうなんだ。ちなみに撮影で苦労したシーンなどありましたか?
星野 「ベイシー」ではいきなり何かが始まったりするんです。そんな時、映像だけじゃなく音も録らなきゃいけないからタイヘンでした。しかもベイシーの環境になりつつ、撮影しないといけないですから。
山本 今回の撮影で、星野さんから菅原さんに動きを指示したことはありましたか?
星野 レコードをかけ代えて、戻ってくるカットなどです。パーツとして欲しかったシーンは最初に撮影部とうかがったときにお願いして撮影しました。その他は指示したことはありません。
山本 星野さんがひとりで撮っているシーンはすべて自然な様子だと。
星野 そう思っていただいてもいいですね。あと、ポスターになっているカットは、お客さんが誰もいなくなったときを見計らって、いつもの位置に座って煙草を吸って下さいとぼくからお願いしました。ひとりでいる菅原さんを撮りたいと思ってもチャンスはなかなかないので。あのときは「ただ座って下さい」とお願いしました。
山本 もうひとつ、この作品はカットをナレーションでつないでいませんよね。これもこの映画の大きな特徴だと思います。
星野 ナレーションは言い訳になると思ったので、それを入れるのは絶対嫌だったんです。「菅原正二、今日は〜」とか言われても、そんなの知らないよって……。
山本 本作は9月18日に渋谷と吉祥寺で公開され、それから順次全国で公開予定とのことですが、パッケージソフトについてはどうお考えですか? オンライン試写を自宅で観たときは、PCのHDMI出力を有機ELテレビに入れ、テレビの同軸デジタル出力をアンプにつないでステレオ・スピーカーで再生しました。転送レートは320kbpsくらいだと思うのですが、音はけっこうよくて、「ベイシー」の音の雰囲気が感じられました。
星野 そういってもらえると、ありがたいです。
山本 劇場公開が終わったら、音のいいブルーレイで出して欲しいですね。わが家のJBLで5.1chで「演奏」してみたい。
星野 うーん、そうですか……。映画館で観て欲しいという一心でしたから、ぼくはブルーレイ化については反対の立場なんですよ。サントラ盤はLPとSACDで発売になりますが……。
山本 反対なんて言ってないで、ぜひお願いします。5.1chマスターのネイティヴのハイレゾ音源をブルーレイにぜひ入れてほしいです。
さて、「ジャズ喫茶 ベイシー」というひとつのレガシーを映画という形で残されたわけですが、これから本作を観に行こうという方に向けてひと言お願いします。
星野 若い人にぜひ観に行ってもらいたいですね。とにかく扉を開けてもらいたい。お店の扉ではなく、ジャズという世界の扉を。ジャズのように面白くてスリリングなものって他になかなかないと思うので、それを本気で味わえる、洗礼を受けるのには「ベイシー」は最高の空間だと思うんです。
山本 最近の若い人のほとんどは、そもそも大きな音でジャズを聴くという体験がないでしょうからね。
星野 「ベイシー」はたしかに特殊なお店です。それを高尚な場所にして神棚に祭り上げてもダメだし、ただコーヒーを飲みに行くところでもない。この映画を観て、目的意識をちょっとだけ持って行って欲しいですね。
山本 この映画の尺は104分。膨大な映像素材をどうまとめるかもタイヘンだったでしょう。
星野 それは編集マンの田口さんの凄さだと思います。
山本 この先「ディレクターズ・カット」などはお考えですか?
星野 ああ、ソレやりたいですね。あと阿部薫のライヴはまるまる素材がありますから、なんとかしたいですね。本当に凄いですよ。神がかって演奏しているのに、しゃべりが朴訥なんですよ。それでぞっとする。あれも充分映画になりますね、監督はやりたくはないけど(笑)。
山本 今の言葉は「やりたい」としか聞こえませんでしたよ(笑)。そのライヴをブルーレイの特典につけるというのは?
星野 ブルーレイはやりません……。
山本 超高画質・高音質で「ディレクターズ・カット」に阿部薫の特典映像。速攻で買いますよ。
星野 そうですか……。
(8月19日 東京・日比谷『日本映画放送(株)』にて)
『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』
9月18日(金)よりアップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
<スタッフ>●監督:星野哲也●編集:田口拓也●エグゼクティブプロデューサー:亀山千広●プロデューサー:宮川朋之、古郡真也
<出演>菅原正二、島地勝彦、厚木繁伸、村上“ポンタ”秀一、坂田明、ペーター・ブロッツマン、阿部薫、中平穂積、安藤吉英、磯貝建文、小澤征爾、豊嶋泰嗣、中村誠一、安藤忠雄、鈴木京香、エルヴィン・ジョーンズ、渡辺貞夫(登場順)ほかジャズな人々
●2019/日本/104分/1.85:1/DCP●配給・宣伝:アップリンク
(C)「ジャズ喫茶ベイシー」フィルムパートナーズ