筆者:山本浩司
我が国を代表する録音/マスタリング・エンジニアであるオノセイゲンさん。彼がコンパイルし、マスタリングを行なったSACD『音色の彷彿(ねいろのほうふつ)Jazz, Bossa and Reflections Vol.1』が昨年11月に発売された(CDとのハイブリッド盤)。
本作は、「ヴァ-ヴ」「フィリップス・ブラジル」の両レーベルから発売されたジャズとボサノヴァの名盤から選曲した全25曲が収録されているが(CD層は全17曲)、興味深いのは「作曲家、ギタリスト」オノセイゲンが1990年代に演奏した2曲がSACD層の掉尾を飾っていることだ。
セイゲンさんによると、「ヴァーヴ」ジャズ音源は、彼がマスタリングを担当した2003年の「ヴァーヴ60周年記念企画」SACDに用いたDSDアーカイヴデータを用いてアナログ領域で新たに音調整したものだという。
ちなみにこのSACDの冒頭に収められたオスカー・ピーターソン・トリオの「You Look Good To Me」は、アナログEQ(イコライザー)も使用せず、レベル調整だけを行なったそう。このトラックの音の質感をリファレンスにして全体のトーンを決めたとセイゲンさんは言う。
いっぽう「フィリップス・ブラジル」のボサノヴァ音源は、これまたセイゲンさんがマスタリングを手掛けた2002年の「サウダージ・ブラジレイラ」は、アナログ領域でマスタリングしたDSDマスターが元になっているが、当時ユニバーサルでは普通のCDしか発売されておらず、今回世界初SACDとなった。いずれにしても全曲PCMプロセスでの音調整やDAW(Digital Audio Workstation)のプラグイン・ソフトを用いた音処理は行なっていないとのことだ。
自室でこのSACDをじっくり聴いてみた。(SACDプレーヤーはソウルノートS3Ver.2、プリアンプはオクターブJibilee Pre、パワーアンプはオクターブMRE220、スピーカーはスーパートゥイーターのエニグマアコースティックスSopraninoを載せたJBL K2S9900)。
1970年代からオーディオマニアのチェック用音源としてお馴染みの冒頭曲「You Look Good To Me」のアルコ奏法のベースの実在感、シンバルのシズル感、ピアノの輝かしい音色、まさに眼前でピアノ・トリオが演奏しているというリアリティが半端ではない。過去さまざまなメディアでこの演奏を聴いてきたが、間違いなくこのSACDの音が最高だと思う。
エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロンング、エリス・レジーナ、カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタなどのヴォーカルはとても生々しく、これまた目の前で彼ら彼女らが歌っているというイリュージョンを惹起する見事な仕上がりだ。
それから全体にレベルを突っ込み過ぎていないせいもあり、サウンドステージが広々としていて、どの楽曲も豊かなエアーとスペースを実感させるのである。いつもよりボリュウムを少しだけ上げてお聴きいただきたいと思う。
CD層の音ももちろん悪くはないが、セイゲンさんが狙ったと思われるウォームでナチュラルな豊かな音色を十全に味わうなら、SACDプレーヤーで再生すべきと思う。晴れ晴れとした爽快な気分がもたらされることは間違いないだろう。
さて、このSACDの魅力を語ってもらおうと、セイゲンさんと交流の深い二人の女性音楽家を我が家にお招きした。立体音響も手がける作曲家・サウンドデザイナーの足立美緒さんと雅楽師でキーボーディストの清田裕美子さんだ。おふたりとも東京藝術大学出身の才媛。まずSACD層の最初の10曲を聴いてもらった。
清田 山本さんのリスニングルームにうかがうのは2度目ですが、このSACDのサウンド、演奏した音というものが、どう人に聞こえるのか」という観点からも、すばらしかったです。『音色の彷彿』というタイトルが付けられていますが、たしかにその魅力、面白さを体感するためには、やはりしかるべき再生装置を用意する必要があるんだなと痛感しました。今日は演奏家の耳で聴いてみたのですが、演奏家としては、自分の演奏が録音された後、どのようにエンドユーザーに聞こえるか、が大変気になります。そういった意味でも、良い音質で録音、再生されることは重要で、良い音で再生されなければ、本来の音は伝わらない。特にこのSACDでは音楽の細部=演奏家のタッチやどんなふうに演奏しているのかがよくわかってとても面白かったです。セイゲンさんのマスタリングとともにオーディオの力ってすごいなと思いました。
とくに感激したのがM2のエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングのデュエット。二人の声質が克明に捉えられていて、その生々しさにビックリ。このトラックはモノーラル収録ですが、モノがステレオよりも音が劣るということはないんだなというのも新鮮な驚きでした。
それから、わたしは雅楽が専門ですが、ジャズ・ピアノも少し勉強していて学生時代はジャズの研究会に所属していたんですよ。ビル・エヴァンスのソロはよく譜面に起こしました。好きなピアニストはオスカー・ピーターソンで、エヴァンスはフレーズは天才的だけれど、タッチや音色については単調だなと思い込んでいたんです。でも今日聴いたエヴァンスのM7/M8で聴けるタッチのダイナミズムと音色の豊かさは驚くほどで、若い頃からこのSACDの音で聴いていたら、ビル・エヴァンスをもっと好きになっていただろうなって思いました。
足立 録音時期が1950〜1970年代という録音技術の激動期の中で、録音場所もそれぞれ違うわけですけど、音質面の矛盾がないことに驚きました。まさにそれがセイゲンさんのおっしゃる時空を越えるマスタリングの力なんでしょうね。ヴァーヴとフィリップスのカラーの違いはわかりますが、それも含めて一つの歴史の物語を感じます。とくに録音時期が古いエラ&ルイがすばらしい音質でビックリしました。音色が豊富でまさに二人が目の前で歌っている感じがして。モノーラルなので左右の広がりはないのですが、モノーラルにイメージしていたさみしさがなくて、前後の感じ、奥行きが深いことに驚きました。
とくに気に入ったのはM3/M10のウェス・モンゴメリーの楽曲。大編成での演奏ならではのクラシック的なオーケストレーションの魅力がありました。1960年代の録音なのにまったく古さを感じさせないフレッシュなサウンドですよね。ウェスのギターの柔らかい音色と管楽器のスペイシャルな音の広がりがすばらしいと思いました。いずれにしろ、今日聴かせてもらったサウンドは、とても分離がよくて解像度が高いので、音楽の細部がとてもよくわかります。このSACDがそんなふうに制作されているのでしょうし、このシステムが素晴らしいからでしょうね。
山本 お褒めいただいて恐縮です(笑)。
清田 ビル・エヴァンス・トリオのM7/M8は、ベースとドラムズのソロがあるけれど、分離がよくて解像度の高いシステムで聴く醍醐味を実感しました。プアな解像度の低いオーディオで聴いていると、長い楽曲は飽きてしまうのですが、今日はとても楽しめました。
山本 フリージャズとか現代音楽の録音をプアな装置で聴くと「コレ、何が面白いの?」ってなりがちだよね(笑)。
清田 そうそう(笑) まさに、その通りだと思います!
足立 私は本当に素晴らしい音楽はどんな条件でも伝わってくるものがあると信じていますが、特にフィールドレコーディングなどで実感するのは、その場の空気感といった生々しさを「体感する」ためには良い録音や再生装置はやっぱり重要ですね。
山本 さて、CD層でも聴ける残りの7曲を全部聴いてみましたが、いかがでしたか。
清田 M13のカエターノ・ヴェローゾとガル・コスタのデュエットがすごくよかったです。Lチャンネルにカエターノ、Rチャンネルにガルというふうに振り分けられた、いかにも1960年代っぽいミックスでしたが、ナマ演奏を彷彿させるサウンドでした。
足立 M14のスタン・ゲッツ、M15のチャーリー・パーカーともに1950年代前半のモノーラル録音ですが、どちらも現代の耳で聴いても違和感がなかったです。時代を思わせるヒスノイズは聞こえますが、音色、音像ともに他の1960~70年代の楽曲に挟まれていてもスムーズに聴くことができる。
山本 それがセイゲン・マジックかもしれないね。聴き手に違和感を抱かせないで、一つのコンピレーション作品として聴かせる音調整が見事だということでしょう。とくにゲッツのテナーの音色の美しさには陶然となるよね。
足立 そうですね。ノーインフォメーションで聴いたら、録音年代を言い当てることは難しいと思います。それくらい時代を超えたいい音だと思いました。古さを感じさせないというか。
清田 それから私がオスカー・ピーターソン・ファンだからというわけではないですが、M16のオスカーの弾くピアノの音色の豊富さ、立体的な音像は最高だと思いました。
山本 やはりこの曲を収録した『プリーズ・リクエスト』は歴史的な名演/名録音アルバムなんだと思いますよ。
足立 この「コルコヴァード」という曲は、アントニオ・カルロス・ジョビンが書いた曲ですよね。ブラジル音楽の柔らかさ、特にドラムのスタイルにボサノヴァを感じつつも、音色面ではジャズというか、今聴いた他の楽曲もブラジルとアメリカの音楽の接点が感じられます。前半の収録曲はそれぞれの特徴が提示されていたように感じましたが、その後にミクスチャーを思わせる楽曲が置かれている。セイゲンさんのキュレーションの狙いがそこにあるのかなと思います。
山本 うん、それは間違いないでしょうね。では、SACD層だけに収録されている残りの8曲を聴いてみましょう。
清田 私は最後に置かれたセイゲンさん自身が演奏されたM24/M25がいちばん興味深かったです。ここまでは古いジャズとボサノヴァの演奏で、ここにきて実験的なアンビエント・ミュージックが置かれていることに何かセイゲンさんならではのメッセージを感じます。とくにスタジオ収録のM25はミュージシャンでもありエンジニアでもあるセイゲンさんならではの音の魅力を実感します。M24/M25共に、楽曲も素晴らしいですし。
山本 1991年にポリドールのスタジオで録られた楽曲だから、もう32、3年前。CDの売り上げもよく、音楽業界が盛り上がっていた時期だから、こういうアヴァンギャルドな作品の企画もすんなり通ったんだろうね。オーディオマニアの耳で聴いてもとても刺激的な演奏です。
足立 物音のような、正体が掴めないけれども確かな手触りのある音たちが織り込まれた、不思議な緊張感のある曲でした。これまでの収録曲でいわゆるジャズ・ボサノヴァで使われる楽器の演奏を聴いてきましたが、これもまた生々しいライブの記録なのだと、ドキッとしました。このようなエクスペリメンタルな楽曲こそ良質なオーディオ・システムで聴きたいですね。
山本 高級ヘッドフォンで聴いても面白いかもね。いずれにしてもこの曲を最後に置いているところにセイゲンさんの強いメッセージを感じるよね。
清田 はい、そう思います。特に、通常の楽器とは違う、様々な音具のサウンドなどは、SACDのような質感の緻密な音で聴いて初めて、その面白さが伝わるんだと思います。
それからモントルー・ジャズ・フェスティバルでライブ収録されたセイゲン・オノ・アンサンブルのM24もよかったです。エレキギターの音色がとてもリッチでうっとりと聴き惚れました。これ、セイゲンさんが弾いているんですよね? こんなにギター上手かったんだと思ってビックリしました(笑)。
足立 同じくモントルー・ジャズ・フェスティバルの演奏であるM8の返歌とも言えますね。あえて弦楽器が美味しい中域をギターに譲るコンチェルト的なバランスが面白く美しい、このアルバムにとってはこれまでの物語を一気に転換するアンビエントな楽曲でした。ほかの曲の印象を言うと、M20やM21のヨーロッパ録音のボサノヴァ楽曲がブラジルで録られたものと音の作られ方が大きく違うのが興味深かったですね。高域がキラッとしていて低音が薄いというか。ピアノの音色や演奏スタイルもこれまで聴いたボサノヴァとも異なるように思います。1969年と1971年の収録ですが、当時のヨーロッパ録音ってそういう傾向にあったんでしょうか。
山本 ぼく自身はそんなふうに感じたことはなかったけれど、たしかにこの2曲にはそういう傾向はあるかもしれないね。M20はロンドンの寒々として空気が感じられるしね。
清田 セピア色っぽい質感かも。M21のナラ・レオンは、かまぼこ型のナローレンジなサウンドで、1970年代初頭のポップスに近いサウンドだと思いました。
山本 ぼくは当時の日本のポップスのレコードに通じる音色を感じました、長谷川きよしとかね。
足立 この曲はリップノイズがかなり生々しく残っていますね。
山本 そこはあえて残したんじゃないかな。マスタリングの段階でそういうノイズを目立たせなくすることはできるけれど、そういう処理をすると、音色が変わったり、音が死んじゃうからね。そこはセイゲンさんのポリシーのような気がする。
足立 ノイズもその場にあった音ですからね。
清田 このアルバム、藝大図書館とかに収蔵すべき作品だと思いました。音楽の多様性、録音やマスタリングに興味のある学生は絶対聴くべきだと思います。アコースティックの録音作品の参考になると思うし、スタジオのエンジニアさんなどでも、ぜひ聴いて頂くと、良い参考になるのではないかと思います。
山本 というか、そういう感度をお持ちの方は、ぜひこのSACDを入手し、お金を貯めて良質なオーディオ・システムを揃えてほしいです(笑)。
(2023年12月21日 山本宅で)
足立美緒
作曲家・サウンドデザイナー。東京藝術大学音楽環境創造科首席卒業、同大学院修了。映像音楽、邦楽器・雅楽器作品、立体音響作品などを手掛ける。邦楽演奏家・作曲家グループ 「音・音」主宰。立体音響の近作に1st配信EP『想像、そしてダンス』(Dolby Atmos/©︎SASSO, rhapsodie musique)、音楽を提供したインスタレーション『空想の大陸―記憶の岩―』(作:原千夏/8chキューブ/東京藝術大学大学美術館に立体音響作品として初めて収蔵)、2つのサウンドインスタレーションを含む展示『音場(OTOBA)~都心から一番近い森の記憶』。
〈取材後記〉
恥ずかしながら私は音楽キャリアの中でハイエンドオーディオやジャズ・ボサノヴァになかなか縁がなく、取材のお話をいただいた時には人選大丈夫かなとちょっと思っていました(笑)。しかし近年立体音響など繊細な音響条件を要求する作品に携わる中、「良い音」の喜びを教えてくださったのがオノ セイゲンさんでした。良いオーディオで良い演奏・良い録音のアルバムをじっくり聴き通す時間。慌ただしい日々、配信で場所・時間を選ばず音楽を聴ける時代だからこそ忘れかけていた贅沢な時間でした。オーディオやジャズ・ボサノヴァに既に親しんでいる方もそうでない方も、このSACDを通して「良い音」の喜びに出会うことを願ってやみません。
清田裕美子
雅楽師。東京藝術大学邦楽科卒業
龍笛、楽琵琶、右舞、歌物、打物、御神楽を宮内庁式部職楽部の各氏に師事。
ベトナム国首相の御前にて龍笛独奏を披露。テレビ、ラジオ等メディア出演。
明治神宮、国立劇場、サントリーホール等、各地で公演を行なっている。
浅田真央出演CM、明治神宮宝物館館内音楽をはじめ、TVや映像の楽曲制作に携わる。近年は、ドラマやアニメ劇伴等の作曲、録音も行なっている。雅楽器のほか、キーボードも担当。宮内庁式部職楽部楽師による『東京楽所』インターメディア楽団『アンサンブル室町』メンバー。Apple Music、Amazon Music等で楽曲配信中。
<取材後記>
同じCDやレコードでも、レコーディングスタジオなどの高性能な環境で聴くのと、一般的な家庭の再生環境で聴くのとは、まったく違って聞こえるので、改めて、整った再生環境で聴くことは、音楽の醍醐味を体験するには、大変重要だと思いました。また、家庭で普段から聴く音楽を、少しでも解像度の高い再生システムで聴くことができれば、その音楽に対する印象も変わるだろうし、深い感動が味わえると思います。私もCDなどよりレコードを子供の時からよく聴いていましたが、味覚は5歳までに決まる、と言うように、音も子供の頃から良質なものを聞くことで、様々な感性が豊かに伸びていくのではないか、と思っています。