戸田真琴の初監督作『永遠が通り過ぎていく』が、いよいよ4月1日より劇場公開されることが決まった。自伝的な3本の短編から構成され、情緒的な映像でまとめられた注目の作品。ここでは、自身で、監督・脚本・編集まで務めた戸田真琴に、作品に込めた想いをインタビューした。

――よろしくお願いします。一昨年発行のご自身の著書『あなたの孤独は美しい』(70ページ)の中にも“映画を撮りたい”と書かれていましたが、まずは、そう思ったきっかけを教えてください。
 映画を撮りたいというのは、自分の人生の中における元からある願いなんです。ただそれも、憧れの気持ちから始まったものではなくて、私は好きな人に対して自分が見た綺麗なものを見せてあげたい、それが人を愛することだ、という思いから出てきているものなんです。それは、恋愛的な意味には限らず、この世界でたまたま同じ場所、同じ時代に生まれた人たちのことを、できれば一人でも多く好きになりたいし、この世の中を好きになりたいっていう願いをもともと持っているので、私が見た美しかったもの――みんなが美しいと思うものとは違うかもしれないけど――を、そのまま見せてあげられないことが、すごく悲しいんです。それで私は詩を書いたり、小説を書いたり、映画を通じて表現をしているんだろうなって思っています。

 しかし、言葉で説明するだけでは叶わないことがあるから手段を選ぶわけで、その中で自分に適性があるものを選んでいった結果が映画だった、と。

 自分は元々映像的に物事を捉えることがすごく多かったので、映画を撮りたいというより、映像という表現方法が自分の中でしっくりきているんです。映画の中には、映像だけでなく、言葉も音楽もあることが自分にとってはすごく都合が良くて! なので、いつか何かをやるのだったら映画を撮りたい、という希望を持っていました。

 という始まりなので、映画が大好きだからとか、あの監督みたいになりたくて、という憧れの気持ちからではなく、日常的にそう思っているというのが正しいですね。

――同じ本に、「自分が一番観たかったシーンが撮れているといいな」(203ページ)という記述もあります。撮れましたか?
 はいっ撮れました!

――それは、3本のオムニバスそれぞれで、思い描いていた映像が撮れたという感じですか?
 いえいえ、そんなことはなくて、やはり初めて映画を作るということは、すごく困難を伴うことだったし、撮りたかったけど撮れなかったもの、叶わなかったことがたくさんありました。けど、その時できることをなるべく最大限でやったという気持ちはあります。それを経験して、今後は、諦めるっていうことがなるべく少ない環境で撮ってみたい、という気持ちは芽生えました。

――完成してからは自主上映をしてきましたが、今回ようやく配給上映が決まりました。今の心境はいかがでしょう。
 長かったなぁと感じています。まずは、観たいけど叶わなかった皆さん、待っていてくれた皆さんに、お待たせしてすみません&待っていてくれてありがとうございます、という気持ちです。イベント上映の時は、私のことを元々応援してくださっている方々がたくさん来てくださったので、本上映という形を取ることで、私のことを知らない人たちにも届くといいなって強く思います。

――今回上映されるものは、イベント上映と同じバージョンですか?
 そのままのシーンもありますけど、かなり編集を変えているものもあります。例えば1作目の「アリアとマリア」では、色味を元々描いていたものに近くなるように調整したり、字幕を加えています。一方、2作目の「Blue Throught」については、編集をガラッと変えていますので、以前のバージョンを観られた方には、かなり違うものとして感じてもらえるのではないでしょうか。

――ガラッと変えたというのは?
 シーンの順序などを編集で大きく変えました。というのも、当時は、撮影が大変だったということもあるし、私自身も自信がなかったり、心が揺れている中で、期日までに完成させないといけない状況にあったので、本来撮りたかったシーンをカットせざるを得ないこともあり……。そうすると、本来繋ぎたかった編集の流れが叶わなくなってしまい、無理な編集をしてしまったという感覚がありました。

 でも、それから2年が経ち、私自身もある程度俯瞰してこの作品を観ることができるようになって、本来伝えたかった話の流れを、いまある素材で伝えるにはどうしたらいいんだろうってことを考えて、冷静に編集をし直すことができたっていうのが大きいですね。

――話は変わりますが、3本のオムニバス作というのは、どういう経緯で決まったのでしょう。
 本来は、1本の長編を想定したストーリーを考えていましたけど、1つの視点で1本のストーリーにまとめてしまうと、それで取りこぼされるものがすごくあると感じたんです。また、そのストーリーを自分のことだと思われたら、それはそれですごく苦しいと思いました。私という存在は1人ですけど、関係する相手によって見せる面(顔)が違うと思っているんです。人間にはいろいろな面があるので、ある程度複数の面を見せないと、存在としての全体像が見えないというか、最低限写すべき数があると思っていたので、そのためには3本の短編とオープニングムービー、間をつなぐブリッジムービーという5つのシーケンスを作るのが最低ラインと言うか、それでようやくこの映画は自分のようだなと言えるものにすることができたと思っています。

――すると、当初想定していた長編というのは、将来観られるのでしょうか?
 そのままでは作らないと思います。(映画を撮った)当時は、映画好きのAV女優として、ファンの皆さんに映画を撮ることや小説を書くことを期待されている状態にあったんです。私は、我が道を行っているように見えて、実は、人のために生きているところがあって、そう望まれたらそうしなければいけないって思ってしまう性格なんです。なので、ファンの方々がそう思ってくれている限りは、皆さんが納得して感動をするような戸田真琴の物語、一般的な女の子像から逸脱しない範囲で描かなければいけないと思っていたんです。そうすると、小説を書くにしても、途中からどんどん嘘になっていくというか、本当はこんなことは思ってないけど、でもこうしないとストーリーが繋がらなくなってしまう……。そうして1つの物語を線としてなぞっていくと、本来あったはずの豊かな感覚が、すごく単調でつまらないものになってしまう感じがありました。それがすごく怖くて。だから、人の人生って1本の物語にはならないんだなって思いました。

――そうした起伏はあってもいいのではないですか?
 最低限、長編映画にするための物語としての精度というか、クオリティは必要なので、ストーリーとしてはめちゃくちゃですけど、これが私です、という選択はできませんでした。自分という存在を正しく描写するために、3つにバラしたという感じなので、原作になろうとしていたもの自体は、将来もやることはないと思います。

画像1: 戸田真琴初監督作『永遠が通り過ぎていく』が、いよいよ4月1日より公開。「たくさんの方に届いてほしい」

――では1本ずつについてお話を聞かせてください。1本目の「マリアとアリア」は、著書『あなたの孤独は美しい』で描写されている戸田さんの過去と、ものすごくリンクしているように感じました。
 アリア役の中尾有伽さんが自分の視点・主観で、マリア(竹内ももこ)がそれ以外、いろいろな役を演じているという形式になっています。それで、分かりあえなさを描いていくという話なんですけど、その中にはこう、自分の感じた他者に対する違和感っていうものをかなり盛り込んでいるので、エッセイとリンクする部分もあるのだろうと思います。

――セりフ回しが、ものすごく舞台的というか、1人芝居のような感じも受けました。
 そうですね、「アリアとマリア」に関しては舞台っぽいねって言って頂くことは多いです。脚本を作る段階でも、話し言葉よりは、書き言葉に寄せようという思いはありましたから。というのも、元々、自分は文章の人なので、まずは書き言葉でイメージを起こすんです。一部では、話し言葉に寄せたほうがいいのでは? という意見もありましたけど、二人の間に立ち現れる関係性と、実際にあるビジュアルがすごくはぐれているので、書き言葉を話し言葉に寄せる必要はないと思ったので、そのままにしました。

――セリフが書き言葉ベースで作られているから、舞台っぽく感じるということですね。
 そうですね。普通の映画だと、もうちょっとナチュラルな話し方にすると思います。一方で、舞台は地声で、限られたセットの中で、状況を伝えないといけないので、ある程度説明的なセリフになることが多いと感じていて、その様子が舞台っぽく観えるのではないかとも感じています。

――最後、鳥籠のような植物園から逃げられないマリアは、何かを象徴しているようにも感じました。
 いつも他者に何かを期待して、ねだって、手に入れられなくて、それを周りのせいにしてというのを繰り返して、そこから出られない人っていうのはたくさんいると思うんです。ただ、言葉にしてしまうと、それが答えみたいになってしまうので、詳細を言葉にすることは控えます。

――次にブリッジムービーが来ますけど、オープニングムービーと合わせて、本当に初監督作なのかなと思うぐらいとても面白く拝見しました。インスピレーションみたいなものどこからきたのでしょう?
 あれは普段から撮っているもの、昔からずっと一人で撮ってきたものなんです。なので、どうしてとか、どこからと聞かれても答えようがないですね。

――では、なぜ逆回しにしているのでしょう?
 そういったことの意図をひとつひとつ言葉で明らかにすることは避けたいです。言葉にしなくて済むように映像を撮っているので。ブリッジムービーとかオープニングムービーは詩だと思っていただければ。

――編集を変えた2作目の出来栄については、ある程度の満足はあるのでしょうか?
 2019年12月の段階では、自分の描きたかったものとの差があるように感じていて、自分自身に対する失望というか、認められないものが多かったんです。ただ、それから2年が経って客観的に観ることができるようになったことで、今まで見落としていたシーン達の良さを再発見することができたんです。再編集にはかなり新鮮な気持ちで臨めて、ここは素敵だから使おう、ここは頑張って長回ししたけどこのぐらいの長さでも良かったなとか思いながら、改めてシーンを配置していきました。

――出ている女性は、冒頭とラストで、大分月日が経っているようにも感じました。
 設定としては翌朝とか、翌々朝という感じですね。人に思いを寄せるということは、それが叶う、叶わないは別としてもすごく疲れることなので、その結果としてのやつれた顔になった。当時も、そう感じながら撮っていました。

――途中に出てくるもう一人の女性が象徴しているものは?
 何か1つの関係性、この2人がどういう関係性にあるのかっていうのを客観的に見せるためには、第三者の存在が必要だと思ってつくった人物です。この世に2人だけだったらうまくいっていたけど、そうではないから崩れてしまったものって、きっとたくさんあると思っていて、「ふたり」に対応する第三者は、時にその関係性の本質を見抜くためのトリガーになり得るんだろうなと思っています。

――ちなみに、最初に仰っていた、私の見てみたかったシーン、撮りたかった映像というのはご説明願えますか。
 それは、具体的に私の言葉で話すとすごくつまらなくなってしまうと思います。今回、劇場公開に合わせて、新たに劇場用パンフレットをつくりましたので、ぜひお読みいただければと。

 まず、「アリアとマリア」では、時間の都合でカットしてしまったシーン――本来撮りたかった――が全部入った脚本を掲載しています。「Blue Through」については、撮りたかったけど撮れなかったシーンを、小説のような形で書き下ろして掲載しています。ぜひ、パンフレット読んで、想像を膨らましてもらえたらいいなと思います。

 加えて、素敵な方に寄稿していただいたり、対談とか座談会とか、色々なコンテンツも収録していて、結果64ページぐらいある、結構な読み物になってしまいました(笑)。持ち歩きやすいサイズにしたので、持ち歩いて、ふとした時に読んでほしいですね。

――最後の「M」へのつなぎには、ブリッジムービーがありません。
 それは、「Blue Throught」の最後のシーンからそのままこの曲が始まるべきだと思ったからです。

――曲に映像をつけていくときに気を付けたこと、印象に残っていることはありますか?
 大森靖子さんの曲に、私が映像をつけましたという形ですが、「M」には、私から出た言葉がすごくたくさん使われています。ただ、私の視点だけではなくて、歌詞に出てくる女の子はどういう景色を見ている人なんだろうという視点での映像を一緒に見せたい、と思って作っていきました。どちらかだけでは違うと感じたんです。

 そのため、歌詞をそのまま映像化するというよりは、音楽と共鳴するような映像をつけているので、元から「M」を好きな方には、歌詞通りの映像が出てこないことに驚くかもしれませんが、もっと深い意味での音楽と映像の調和を感じていただけると、見えるものが変わってくるのかなと思っています。

――そう聞くと、戸田さんにはMVを撮る才能をお持ちなのかなと思います。
 ありがとうございます。ただ、私の場合、才能云々よりも、自分に適性があるものをなるべくやっていこうと思っていて、音楽はすごく好きなので、まあ、好きとかは関係ないと思いますけど、自分には音楽を聴くための特別な感覚があるなと感じているので、MVは、また撮ってみたいです。映画と文章(文筆)には適性があると思うので、続けていきたいです。

――ところで、映画のタイトルの意味は?
 「永遠」とは、いま感じている一瞬のことなので、その一瞬一瞬がすべて通り過ぎていくっていうことを描いた映画になっているのだと感じていただければ。

――そうした感覚というのは、ずっと認めてきた日記の恩恵なんでしょうか? そうした言葉が文筆や映像に活かされているという感じですか?
 ああ、それはすごく分かります。そうかもしれません。まあ、他に話し相手がいなかったから(日記を)書いていたんですけど、それによって、すごく内省を繰り返していたんだろうなと思います。

――最後にメッセージをお願いします。
 この映画は感覚としての自分史ですが、同時に誰かの孤独のための賛歌でもあります。観られれば観られるほど、誰かのものになってバラバラに散っていって、そうしてやっと本来私の望んだ姿になっていけるのだと思っています。ぜひこの映画を望んだ姿にしていく手助けをしてやってください。私のことをちっとも知らなくて大丈夫です。劇場で、映画として、お会いできますように。

画像2: 戸田真琴初監督作『永遠が通り過ぎていく』が、いよいよ4月1日より公開。「たくさんの方に届いてほしい」

映画『永遠が通り過ぎていく』

4月1日(金)よりアップリンク吉祥寺 ほか全国ロードショー

<キャスト>
中尾有伽、竹内ももこ、西野凪沙、白戸達也、國武綾、五味未知子、イトウハルヒ

<スタッフ>
監督・脚本・編集:戸田真琴
劇中歌:大森靖子
音楽:AMIKO/GOMESS
助監督:小林大輝、伊藤希紗
配給協力:羽佐田瑤子、長井龍
配給:para
2022年/日本/カラー/60分
(C)Toda Makoto

<Story>
「アリアとマリア」 植物園で互いの宿命を解析し合う少女たちの物語
「Blue Throught」 キャンピングカーで旅に出る男女の刹那の交流を描いた物語
「M」 監督自身が送った手紙をもとに大森靖子が書き下ろした楽曲を使用した喪失と祈りを描く讃美歌

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