去る9月23日(祝・日)、東京・銀座のソニーストア銀座5階試聴室(シアタールーム)にて、特別なイベントが開催された。発売以来12年もの長期にわたって作り続けられているソニーのハイファイスピーカーSS-AR1の設計者をお呼びし、開発プロセスや音質チューニングの勘所を聞き、実際にそのサウンドを楽しみながらロングセラーの秘密を探ろうという試聴会である。
SS-AR1の発売は2006年12月、リリースからすでに12年の月日が経とうとしている。にもかかわらず、ソニー・オーディオ製品のカタログから落ちることなく、現在でも新品を購入することが可能だ。その人気ぶりは、実は毎年12月に刊行される季刊ステレオサウンドの誌面でも証明されている。なんと、2017年12月に発行された205号掲載の「2017-2018ベストバイ」企画でも、SS-AR1が22位(160万円以上、320万円未満)、姉妹機のSS-AR2が12位(80万円以上、160万円未満)にランクインしているのだ。世界中にスピーカーが数多あるなかで、長期にわたって安定した人気を保ち、ベストバイに選ばれ続けるという製品は極めて稀だ。
このSS-AR1の設計・開発を担当したのは、現在、ソニービデオ&サウンドプロダクツ株式会社 Sony Outstanding Engineer 2011、シニア アコースティック アーキテクトとして活躍する加来欣志(かく・よしゆき)さん。当時、ソニーブランドを掲げる製品は、その開発や設計は会社としておこなったもの、という認識が基本で、個人名が表に出ることは滅多になかったのだが、このSS-ARシリーズでは、開発・設計者として加来さんの名前が掲げられた。それは、スピーカーとは音楽を聴くものであり、音楽が個人の嗜好に大きく左右される存在であるならば、開発・設計者の存在を明示することが、そのスピーカーを使おうとするお客様の信頼を得ることに繋がるのではないかという、加来さんの考えが尊重されたのだろう。
「今回の試聴会では、12年前、このSS-AR1を設計・開発するにあたり目指したこと、こだわったことを思い出しながら、その過程でよく聴いていたというソフトを、一人の音楽愛好家として、ご参加いただいたみなさんとともに楽しみたい。」 イベントを控えた打合せで、加来さんはそう語ったのだった。
試聴会は、13時からと16時からの2回、それぞれ90分の予定で開催された。今回の聞き手は、季刊ステレオサウンド編集長の染谷一。準備されたオーディオ装置は、SACD/CDプレーヤーがソニーSCD-DR1、プリメインアンプがソニーTA-DR1a。ハイエンドモデルとしてリリースされたオーディオコンポーネントたちだが、いずれも生産は完了している。用意されたシートは各回15席、多数のご応募をいただき、開催日を待たずして満席となってしまった。
開始早々、加来欣志は語る。
「コンサートで素晴らしい音楽に接することは自分にとって珠玉の楽しみです。例えばサントリーホールに一歩足を踏み入れた時の空気感、木の響、ステージを歩く指揮者の足音、 鳴りやまぬ拍手。すべてが自分にとって心地良い音楽体験。SS-AR1は、この音楽体験を家庭で再現することを目的として開発しました。」
そのために、ステレオサウンドからリリースされていたCD『REFERENCE RECORD 第1集:フィリップス・サウンドVol.1』や『REFERENCE RECORD 第10集:ドイツ・グラモフォン・ベスト・レコーディング』などを音質の確認用としてよく使ったという。この試聴会でも前者から、ヴェルディの歌劇「マクベス」前奏曲が披露された。
ここで語られたスピーカー設計・開発のポイントは、まずスピーカーとしての充分な物理特性の追求。その上で、「音色の自然さ」「空間の自然さ」「残響の自然さ」を自分にとって違和感のない状態にしていく。その意味は、試聴会のなかでかけられた、ステレオサウンド制作のガラスCD『グレン・グールド「J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲」』や、『「ワーグナー:楽劇《ジークフリート》舞台祝典劇「ニーベルングの指環」第2日 』を聴いていくにつれて、お客様にも徐々に伝わっていった。この考え方は、ステレオサウンドがリリースする音楽ソフトの制作ポリシーとも見事に合致する。
では、そんな自然さを達成するためにこだわったのはどんなことだったのだろう。加来さんが持参したチェロのヨー・ヨーマが奏するSACD『シェン「中国で聞いた7つの歌」』を聴いたあと、質問を投げかけてみた。
「ひとつは響きをコントロールすることです。 現代スピーカーは楽器ではありません。ドライバーからの音だけが発せられて、箱の音が付加されてはいけないと考えています。しかしどんなに頑丈な箱を作ってみても、人間に感知できる微小な音を完全に止めることはできません。それなら、その微小な音に違和感がないようにしようと考えました。それには木材の選び方と組み方がとても重要な要素になります。」
その解答のひとつが、ドライバーを支える北海道産楓材を50 mmの積層して使い、その他の主な部分に、それよりも少し柔らかい北欧のカバ材を使うというアイデアだった。そしてもうひとつの重要なポイントが木材の組み方だったと、加来さんは続ける。
「木材同士を接合する隙間を大きくして組立てやすくし、接着剤で固めても外からは分かりません。しかしこれではせっかくの木材が台無しです。SS-AR1では、木工加工の限界まで精度を追い 込んで、さらにすべての部位が同じ精度で勘合するよう確認してもらいながら、職人さんにカンナで仕上げてもらっています。塗装も試聴を繰り返して決めたもの。もはやピアノ塗装以上のピアノ塗装になっていて、自分でもやりすぎたと思いました(笑)。でも、音だけではなく、持つ喜びも感じて欲しかったんです。」
こうしたトークに、染谷編集長も「これだけの手間と時間をかけて生み出されているものが、12年もの間、作り続けられていることに驚かされますね。設計当時から考えれば、材料費や人件費は高騰していますし、何よりこれだけ大きなもの2本をセットで動かさなければらないのですから運送費だって相当なものになるでしょう。しかも生産は全工程が日本国内、最終組立はソニーの工場で行なわれている。そう考えれば、値上げもされず当初の販売価格が維持されているのは、とてもすごいことです。」試聴会の最後に加来さんが選んだ曲は、絢香のライブ音源CDに収録された「みんな空の下」。大阪城ホールに響き渡る彼女の歌声はまさに天井知らず。ほぼ伴奏なしで歌われるワンコーラスは、この日が病気療養に入る前の事実上最後のワンマンライブということもありとても力強く、自身の耳で選び抜いて搭載したというデンマーク・スキャンスピーク製ユニット(ドライバー)を通して、聴くものの胸ぐらを掴むかのように響いてくる。
「この時の絢香の歌声には『ひょっとしたらファンの前で歌えるのは、今日が最後になるかもしれない』という覚悟みたいなものを感じるんです。自分の作ったスピーカーから、その覚悟が会場のみなさんにも伝わればいいな、と思っておかけしました。」
この時、ソニーストア銀座の5階試聴室は一本の張り詰めた糸の上にあった。スタッフも含め、そこにいる全員がSS-AR1が放つ絢香の歌声に引きつけられ、固唾をのむひととき。閉会後に回収されたアンケートでも、その評価はこの日一番だった。
今回の試聴会はここで幕。ソニーストア銀座スタッフから、SS-AR1の購入方法、店舗や試聴室の利用方法についての案内などがあった後、加来さんからのうれしいプレゼントを巡って恒例のじゃんけん大会を実施。いつかSS-AR1のようなスピーカーで、好きな音楽をいい音で聴きたい……ご参加いただいたみなさんの心にそんな気持ちが芽生えたなら、ステレオサウンドで音楽ソフトをリリースしている私たちにとって、これほど嬉しいことはない。