『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』から5年、デヴィッド・リンチが人間の心の闇に潜む殺人衝動を、メビウスの帯や解離性障害との隣接点の中で描き出した戦慄のネオ・ノワール。愛妻レニー(パトリシア・アークエット)を無意識のうちに惨殺したサックス奏者フレッド(ビル・プルマン)。彼は警察の留置場でまったく別の人間(自動車整備士ピート/バルサザール・ゲティ)に変身する(※)。釈放されたピートはブロンドの女アリスと恋に落ちるが、彼女はフレッドが惨殺したレニーと瓜二つだった・・・。脚本はリンチと『ワイルド・アット・ハート』のバリー・ギフォード。
※ 解離性障害(解離性遁走)の描写は、アンブローズ・ビアスによる短編小説 『アウル・クリーク橋でのできごと』(1890)へのオマージュでもある。
撮影は『マルホランド・ドライブ』のピーター・デミング。監督リンチの監修を経た、35mmオリジナルカメラネガ(A/Bカメラネガ)からの4Kデジタルレストア/HDRグレード。2019年には米キーノ・ローバーからBLU-RAY(35mmインターポジからの2010年2Kレストア・マスター/ユニバーサルが提供)が登場しているが、UHD BLU-RAYとの差異は広範に現れる。
真っ黒な闇より、濁った闇の方が怖ろしい(デヴィッド・リンチ)
当初リンチは白黒撮影を望んだが(金銭的リスクが生じる可能性があるため回避)、極度のグレースケールへの偏愛は随所で楽しめる。その楽しみのひとつは冷たさ。同様のテーマと構成の『マルホランド・ドライブ』が腐った薔薇を思わせる映像だとしたら、本作の映像はある種の捻じれた工業用彫刻のような冷たさを有しているように思える。
ネオ・ノワールの性質を高める豊かで深い映像美学を提供する、チョコレートフィルターを使用した映像効果の再現も素晴らしい。光を滲ませたソフトフォーカスや、意図的な焦点ずらしのテクニックなど、リンチならではのお好みの強い映像も観応えあり。
これまでのリリースは、明るすぎたり(仏スタジオカナルBLU-RAY)暗すぎた(キーノローバー)が、リンチは適切にHDRグレード(HDR10/ドルビービジョン)を施しつつ、意図していた映像バランスを実現してみせた。コントラストの制御も絶妙。深い陰影の描画力が強化され、(フレッドの家の廊下など)暗部や低照度ショットの破綻から解消されている。ヘッドライトやコンサート照明など、意図的にハイライトを限界点に押し上げるが、驚くほど抑制が効いた光彩効果を生成している。
35mm磁気トラック・マスターから、ニアフィールド鑑賞用に最適化するためにリマスターされたDTS-HDマスターオーディオ5.1、およびリニアPCM 2.0サウンドトラックを収録。いずれも本作のサウンドデザイン/リレコーディングミキサーを兼任したリンチと、『マルホランド・ドライブ』の音響エンジニア(音響編集監修/リレコーディングミキサー)であるロナルド・エング(aka.ロン・エング)がリマスター作業を務めている。本作のサウンド・パフォーマンスの記憶を幾重にも書き換える分解能と明瞭度、非常にシャープで変化に富んだシネソニックを満喫できよう。
コンサート音楽やカーチェイス、爆発的な轟音、雷鳴、ネオ・ゴシックな唸りや囁きといったサウンドが散りばめられているが、聴覚にもっとも不快感をもたらし、緊張を強いる瞬間は静寂の中に在る。例えば前述したフレッドの家の廊下の場面など、息の詰まるような静寂で覆われている。
この静寂音は過剰で重く、低い唸りを伴いながら可触的な耳映ゆさを体感させ、発生する不吉な振動と共に観る者を覆うのである。重苦しいまでの空虚な音彩空間。そのなかにミックスされる蛍光管の滲むような響き。ガスボイラー(集中暖房)によるの低いバリトン。電気配線のクラスターの音律。排気孔が奏でる不穏な噪音。圧巻である。リニアPCM 2.0の完成度も極めて高い。必聴!
UHD PICTURE - 4.5/5 SOUND - 5/5
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