ソニーから、背面開放型モニターヘッドホン「MDR-MV1」が5月末に発売された。「音楽クリエーションの変化に技術の力で寄り添い続ける」というポリシーに基づき、立体音響の制作環境をより身近なものにし、立体音響制作の加速とクリエイターの創作活動への貢献を目的として企画されたという。そんなMDR-MV1の能力を最大限引き出すべく、理想的な環境で測定を行うことで制作スタジオの音響をヘッドホンで再現するサービスも実施される。

 以下では前回に引き続き、MDR-MV1の開発を担当したソニー株式会社 パーソナルエンタテインメント事業部 プロフェッショナルソリューション事業室 プロフェッショナルオーディオ課 シニアヘッドホンプロデューサーの松尾伴大さん、田中光謙さん、商品技術センター 機構設計第1部門 メカニカルマネージャーの尾崎雄三さん、商品技術センター商品設計第2部門 アコースティックアーキテクトの潮見俊輔さんに、新しい取り組みに関するお話をうかがっている。(StereoSound ONLINE編集部)

麻倉 前回は、立体音響の再生に対応したモニターヘッドホン、MDR-MV1の企画意図や開発での苦労点についてお話をうかがいました。製品の発売から1ヵ月ほどが経過しましたが、やはりプロ用途としてのニーズが多いのでしょうか?

田中 ユーザー層についてはまだ詳しく調べることが出来ていませんが、ネットの反応などを見ると、オーディオファンの方からの注文も多いようです。

麻倉 なるほど、クリエイター用としてはもちろん、オーディオファンにも楽しめるクォリティに仕上がっているのですね。その音作りはどのように行ったのか、今回はそこから教えてください。

田中 前回申し上げた通り、ハードウェアとしてのヘッドホンについては、元々の音源をいかにニュートラルに再現できるかに気をつけています。音の仕上げについては、国内、海外のソニー・ミュージックエンタテインメントのサウンドエンジニアにも聴いてもらい音質調整をしていきました。

麻倉 その音作りについては、最初は意見が違うかもしれないけど、音が仕上がってくるとだんだん指摘されるポイントも集約してくるのではないでしょうか?

潮見 おっしゃる通り、当初は意見が割れてしまうかもしれないと考えていたのですが、音の方向性についてはそこまで大きな違いはありませんでした。

田中 プロが求めているのは “自分の好み” ではなく、収録した音が正確に再現されるかという点なのです。例えばピアノの88鍵の一番低い音から高い音までニュートラルに、そのままの音が再現できるようにという点にこだわっていました。

潮見 実際に海外のスタジオにMDR-MV1を持ち込んで、360 Virtual Mixing Environment(360VME)の測定を行いました。それからスタジオの常設スピーカーとMDR-MV1を聴き比べながら、トーンバランスや、ヴォーカルと他の楽器との関連性などについてのコメントもらい、さらにその場でMDR-MV1を微調整しました。ドライバーユニットのダクトも0.1mm刻みで穴の大きさの違うものを用意して行って、現場で交換して最終的な音を決めていきました。

「MDR-MV1」はケーブル交換も可能。音楽制作現場で使われることも想定し、付属のケーブルはロック機構を備えている

麻倉 その場で調整できれば話は早いですね。音決めの際には、2chと360 Reality Audioの両方の音源を使ったんですか?

田中 はい、音源は2chと、360 Reality Audioを使いました。さらに360VMEで測定する前と後で、MDR-MV1を使って360 Reality Audioを試聴してもらいました。

潮見 このプロジェクトを始めた頃は、2chに向いているバランスと、立体音響に向いているバランスでは調整内容が違うんじゃないかと考えていました。しかしクリエイターの声を聞きながら調整を進めていったところ、最終的には両方に共通したポイントを見つけることができました。

麻倉 以前、映画製作用の360VMEの取材で試作機のヘッドホンの音を聴いたときに、測定で使ったウィルソンオーディオのスピーカーの音がヘッドホンで再生されたので驚きました。音場や音像はわかるんだけど、音色まで似せるというのは不思議ですね。

潮見 それが360VMEの技術で、われわれも高い再現性を目指して開発を続けています(笑)。繰り返しになりますが、そのためにはMDR-MV1のように元々はフラットな特性を持っていないと駄目なんです。そもそもの製品として個性が強いと、音色を揃えるのは難しいですね。

松尾 MDR-MV1は、麻倉さんが試された試作機より大きく進化、改善されています。

潮見 再生信号に何らかの補正処理を加えるということは、基本的に大きな音が出せるヘッドホンに対して、音圧を下げる方向で処理していくことが多いわけです。それもあり、ヘッドホン側には高感度が求められます。結果的にですが、MDR-MV1は24Ωという値に落ち着いています。

麻倉 スペシャリティモデルなら性能第一で開発すればいいけれど、長く使うプロ用モデルでは安定した技術で作ることも求められますから、開発は難しいでしょうね。

ヘッドバンドの長さを調整するスライダー部には、数字表記がついている。自分に最適な位置を決めておくことで、常に同じ装着状態を再現できるようにという配慮だ

潮見 しかもプロ機の場合、一台で数十万円もするようなヘッドホンを使ってくれるかという問題もあります。なにしろプロ用ヘッドホンの普及価格帯は5万円くらいですからね。

麻倉 確かに、ビジネスでは予算も重要ですからね。MDR-MV1の価格はおいくらでしたっけ?

松尾 ソニーストア価格で税込¥59,400です。

麻倉 それなら現実味がありますね。では、そろそろMDR-MV1の音を聞かせて下さい。今日は360VMEの測定はしないんですね?

松尾 はい。本日は360VMEの測定はしませんが、次回メディア・インテグレーションさんのMILStudioで測定を予定しています。ですので、測定の効果はそこでご確認いただけます。今日は360 RealityAudioの制作ツール上でデモ音源をお聞きいただきます。個人最適化はせずに、標準的な係数を用いてバイノーラル再生します。

麻倉 音がすごく素直ですね。まったくお化粧をしていないというか、生の音が出てくる。でありながら、生真面目で面白味のない音ではなく、音楽としても聴ける。楽曲にはたくさんの楽器が使われていますが、それらがちゃんと分離していて、混濁しない。オーディオ試聴用としても、いい仕上がりです。

 音楽性もすごくいい。あるがままの音が出てくるんですが、その感じも素直です。音場の深み、広がりもある。音場再現と音楽性の魅力を備えていて、それでいて素直な音というのが貴重です。

潮見 ありがとうございます。これは私の考えですが、密閉型ヘッドホンは箱庭的なイメージがあって、限られた中でその奥にある景色などを想像する音だと思います。一方で開放型は借景のイメージがあるので、実際の空間に地続きで広がっていくような音場を作りたいと考えていました。

麻倉さんにはケーブルによる音の違いも確認いただいた。写真は「MDR-1AM2」用に発売されているキンバーケーブル製の導線を使ったリケーブルをつないだところ。ロック機構はついていないが、コネクター等の互換性は取れているとのこと

麻倉 “借景のような音場” というのは、いい言葉ですね。デモ音源の他に2ch音源の「上家みえ/チーク・トゥ・チーク」も聴きましたが、音の響きでヴォーカルや楽器の位置関係をきちんと再現されていました。

 また1964年のベルリン・フィルの録音から「シューベルト:交響曲第3番・第8番《未完成》」を再生すると、会場の広さ、弦の音が飛び散って、そこに倍音が生じて空間が満たされていく、そんなライブ感がよく伝わってきました。反響音はとても微小なんだけど、それがよく再現できていますね。

潮見 微小信号のリニアリティは、背面開放型の応答性のよさも貢献していると思います。細かい信号なので、ハウジングで覆ってしまうと貝殻効果の“コー”という音でマスキングされてしまいます。また、貝殻効果が再生音に乗ってしまうと、測定の際に環境に由来したものなのか、ヘッドホンのせいなのかがわからなくなってしまいます。背面開放型にすることで、そういった要因を極力排除できました。

麻倉 前回の取材時に、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの映画制作現場でMDR-MV1の試作機が使われているという話を聴きましたが、他のスタジオを含めて今後の展開はどうお考えなのでしょう?

松尾 MDR-MV1には様々な需要があるだろうと感じていますが、まずは音楽制作用からスタートします。ここから色々なご意見をいただいたり、音楽制作に使ってくれた方からのフィードバックをもらうなどして、今後の展開を考えていきます。

 ソニー・ピクチャーズエンタテインメントも当初はプロトタイプのヘッドホンを使っていたのですが、今回ニューヨークのスタジオで音を調整した後に、西海岸に移動して映画制作でも使えるかを確認しました。その結果、まったく問題なかったので、今後はMDR-MV1に切り替えて映画制作を進めていくことになりました。

360 Reality Audioの音源は、MacBook Proにインストールした専用アプリを使い、ミュージックインターフェイス経由で再生している。今回は360VMEによる個人最適化は行っていない

麻倉 確かにこの再現力だったら、ドルビーアトモスの制作にも充分使えるでしょう。ところで、映画用、音楽用といった用途が増えていったら、360VMEの測定を行うスタジオもそれぞれに特化していくのでしょうか?

松尾 現段階では何とも申し上げられませんが、ソニーとしても特定のスタジオと提携した測定サービスは初めてに近い取り組みですので、まずはしっかり実績を残していきたいと思います。

麻倉 今の立体音響は360 Reality Audioを含めて、厳しい言い方をすればほとんどフェイクです。それはちゃんとした再生環境がないからです。でもちゃんとした音で聴けるようになれば、クリエイターも作品づくりに前向きに取り組んでくれるでしょうし、自分のイメージに沿った作品を送り出してくれるでしょう。そうなってこそ、本当の空間オーディオが楽しめると思います。

潮見 そうですね。現状では立体音響が、本当どんな風に聴こえるといいのかイメージできないユーザーも多いかもしれません。MDR-MV1によって、そういった方にも本当の360 Reality Audioの魅力をお届けできればと思っています。

麻倉 非圧縮の360 Reality Audioのコンテンツをユーザーに届ける手段も考えて下さい。今のストリーミングによる配信では音場再現が優れていても、音質が残念な結果になりかねませんので。

※次回は株式会社メディア・インテグレーションのMIL Studioにお邪魔して、360VMEの測定を実施、最適化したサウンドを体験したリポートをお届けします。

●ヘッドホン:ソニー
MDR-MV1 市場想定価格¥59,000前後(税込)

●型式:オープンバックタイプ
●使用ユニット:40mmダイナミック型
●音圧:100dB/m/W
●再生周波数帯域:5Hz〜80kHz
●インピーダンス:24Ω(1kHz)
●最大入力:1500mW
●質量:約223g(本体)