4月の初回開催以来、池袋の名画座・新文芸坐で好評を博している上映企画<オーディオルーム 新文芸坐>。マスタリング・エンジニアのオノ セイゲン氏が選んだ「音のいい映画」を、その映画に合わせて劇場の音響を調整して上映するというシリーズだ。『ニュー・シネマ・パラダイス』『真夏の夜のジャズ』『海の上のピアニスト』に続くVol.4として、岩手県一関市にある伝説的なお店のドキュメンタリー『ジャズ喫茶ベイシーSwiftyの譚詩(Ballad)』の上映が去る6月21日と22日の夜に行われた。

 ちょっと深みにはまったオーディオ・ファンなら、その名前を知らない人はいない、ジャズ喫茶「ベイシー」のマスター、菅原正二氏。1942年、岩手県に生まれ、早稲田大学在学中はビッグバンド、ハイソサエティー・オーケストラのバンドマスター&ドラマーとして活躍。その後プロに転向するも、1970年に郷里の一関に戻り、ジャズ喫茶を開店。自身の音を求めて日夜オーディオに果敢に取り組み、レコードを「再生」でなく「演奏」する。

(C)「ジャズ喫茶ベイシー」フィルムパートナーズ

 そこで聴かれるド迫力のサウンドはやがて伝説となり、東京や他の土地のジャズ・ファンがわざわざ聴きに来るだけでなく、店名の由来となったカウント・ベイシーや彼の楽団の仲間たち、ジョン・コルトレーン・カルテットでおなじみのドラマー、エルヴィン・ジョーンズ、サックス奏者のペーター・ブロッツマン(この映画に出演もしている彼は、惜しくも今回の上映とほぼ同じタイミングで逝去)、坂田 明等々、国内外のジャズ・ミュージシャンも詣でて、ライヴを行うようにもなった。

 また、菅原氏はオーディオ、ジャズに関する執筆も数多く行っており、StereoSound ONLINEの母体とも言える「ステレオサウンド」誌でも30年以上、同誌の連載の最長記録を伸ばしているわけだが、それらの原稿は「ジャズ喫茶『ベイシー』の選択 ぼくとジムランの酒とバラの日々」(講談社プラスアルファ文庫)、「聴く鏡 一九九四−〜二〇〇六」「聴く鏡II 二〇〇六〜二〇一四」(ステレオサウンド)など、いくつもの出版物にまとまっており、オーディオ・ファン、ジャズ・ファンのバイブルとして親しまれてきた。

 このドキュメンタリー映画は、ジャズ喫茶ベイシーとマスターの菅原氏に惚れ込んだ星野哲也監督(本業はいくつかの飲食店の経営をされている)が5年以上にわたって撮りためた、菅原氏やここを訪れる人々のインタビューと、ジャズ喫茶内で流れる名盤の数々のサウンド、そしてこの場所で行われた上記ミュージシャンたちの熱いライヴなどで構成されている。

 説明的なナレーションなどない。音の凄さは音で語る、という気概は、かつての名機ナグラによる現場での録音(時には7台稼働……うち1台は監督の私物!)を元に制作された5.1ch音響の素晴らしさに現れている。ちなみにナグラが使われたのは「アナログの音はアナログで録りたい」という監督の意向である。

初日のトークショウより。オノセイゲンさん(左)と星野哲也監督(右)

 映画は、その昔、アーゴ・レコードから出ていた『雷鳴下の蒸気機関車』という、知る人ぞ知るレコードの音からスタートするのだが、5.1chリミックスにより、映画館全体にまるでタルコフスキーの映画のように雨が降り始め、重量級の機関車の轟きの中、咆哮と言う言葉がぴったりの汽笛がつんざく……ジャズのジャの字も鳴らないうちから、座席に預けた体が10cmは沈み込むような衝撃で、お客さんは誰しも一気に昇天する。

 そしてもちろん、ジャズが凄い。曲の頭が出るたびにいちいち「おおっ?」とのけぞるような驚き。店名の由来でもあるカウント・ベイシー楽団のド迫力の金管シャワーもズッシリかつ華やかなら、エレクトリック・マイルスのファンクネスも、どす黒くとぐろを巻く。個人的には一番なじみのあるセロニアス・モンクのソロ作『セロニアス・ヒムセルフ』の一曲目「エイプリル・イン・パリ」の打鍵のリアルさときたら、鍵盤やハンマーの木材のしなり、硬さまでもが目に見えるよう……。一度もベイシーに足を運んだことのない自分なので、その再現度を評価することは出来ないけれど、とにかく驚きの連続であった。

 凄いのはジャズ喫茶ベイシーか、その再生音の録音の仕方か、映画化の際のミックスや調整か、はたまた新文芸坐の音響設備か、それを調整したオノ セイゲンか……おそらく、どれをとっても最高レベルのそれらの結集による成果というか大金星。新文芸坐、普通の劇映画の、ドラマに即して設計された5.1chの音響ももちろん素敵に鳴ってくれるのだが、それらとはまた一味も二味も違う手法でこの小屋をブンブンと震わせるこの作品は、これから月に一度くらい定期上映してくれたらいいのに、と思わずにいられない。いつもは使わない筋肉を刺激してくれる整体のマッサージや鍼灸のように、この作品を掛けることで、この映画館の音響システムの調子を高めてくれる効果もあるのではないか。そんな空想まで掻き立てられる。

<オーディオルーム 新文芸坐>で、これから毎月一度の定期上映してくれたら、間違いなく毎回、満席になるはずである。監督並びに関係者さま、やってみませんか?(by オノ セイゲン)

 両日とも上映後にはセイゲン氏をホストにアフタートークも行われた。1日目のゲストは星野哲也監督、2日目はオーディオ評論家で、元「ステレオサウンド」編集長でもあった小野寺弘滋、そしてダイナミックオーディオのオーディオ・アドバイザー厚木繁信(彼はこの映画に出演もしている)の両氏。お二人とも若き日にマスター菅原氏の薫陶を受け、親交を深めると共に、己のオーディオ道を追求されてきた、今では業界の重鎮だ。

2日目のトークショウは、オノセイゲンさん(左)、小野寺弘滋さん(中央)、厚木繁信さん(右)の3名が登壇した

 星野監督は、この日の音響を、過去に上映したどの映画館よりも良かったと絶賛し、そのポイントを二つ挙げた。一つは劇中でかかる“最後のカストラート”アレッサンドロ・モレスキの「アヴェ・マリア」、ベイシーでの再生の録音時にはステレオマイクの片チャンネルを潰して1トラックで録音したのだが、その音がセンタースピーカーからきっちり出ていたこと。もう一つは映画のラスト、菅原氏は閉店時もアンプの電源を落とさず、ターンテーブルも回しっぱなしにしているのだが、これまで他の映画館では聞こえなかったそのホワイトノイズの音がちゃんと鳴っていた、と。

 「ステレオサウンド」の読者時代に菅原氏の原稿に親しみ、やがて編集部に入って彼の連載企画を提案、長年にわたって菅原番の編集者を務めてきた小野寺氏は語る。「オーディオの世界では『これだけやったから凄いぞ』と自分の頑張ったことを喋る人が多いけれど、それを一切出さないのが菅原さんのすごいところ。この映画でも自己のエゴを喋ってない。いい音かどうかを決めるのは、結局、その装置の所有者であり、その音楽を聴きたい人。それを菅原さんはすごく高度なレベルでやっている」。

 ベイシーで聴いたのと同じ曲を、少しでもベイシーの音に近づけようと毎週、自分の部屋のオーディオ装置と格闘することを何年も続けたという厚木氏は、菅原氏に閉店時にもアンプの電源を落とさない理由を尋ねた時、「お前、寝るとき息止めるか?」と言われ、以来、自身もアンプの電源を落としていない。菅原氏からは「俺には俺の都合があるから、君は君の都合でやれ」と、テクニカルなことは一切教えてもらったことはないという。

 コロナ禍以来、ベイシーは店を開けていない。「何かきっかけがないと再オープンが難しそうなので、また馬鹿なことをやって店に突っ込んでいきたい」とベイシー愛を貫く星野監督は語る。加えて、これまで監督が頑なに拒んできたこの映画のブルーレイ化(家庭のテレビのスピーカーなんかで聴かれては嫌だ、という気持ちがあるようだ)についても、前向きな発言が飛び出して、客席からは大きな拍手が沸いた。その暁には、ベイシーのファン、ジャズ・ファン、オーディオ・ビジュアルのファンたちが、自分なりのベイシーの音を追求しようと躍起になることだろう。その際は、ぜひオノ セイゲン氏にこの音をマスタリングしてもらいたい。

オノ セイゲン presents「オーディオルーム 新文芸坐」Vol. 6
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の上映が、7月29日(土)10:00〜、19:30〜に決定

●上映作品:『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
 (1999・独=米/105分/BD/ドキュメンタリー)
 監督:ヴィム・ベンダース 出演:ライ・クーダー、イブライム・フェレール
●トークショー:19:30の回上映後に開催。ゲストは久保田麻琴さん、オノ セイゲンさん(マスタリングエンジニア)
●チケット:一般¥1700、各種割引¥1300
※上映1週間前の0:00よりオンラインにて販売(窓口は9:00より販売)、オンラインでの販売は上映の30分前まで。以降の席状況はお問い合わせください
●オーディオルーム新文芸坐とは:新文芸坐の「BUNGEI-PHONIC SOUND SYSTEM」を世界的音響エンジニア、オノ セイゲンさんがダイレクトに調整。極上の音響空間を創出します。

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