コロナも一段落しコンサートに対する制限も解除された昨今、連続してイマーシブ・オーディオを使ったライブコンサートを取材することができました。どちらも観客数10000人前後の大規模なもので、1つ目は2023年6月号のプロサウンド誌でお伝えした大阪城ホールでのMy Hair is badのライブ、今回は2017年に開催されたFUJI ROCK FESTIVAL以来、6年ぶりの来日を果たしたビョークのワールドツアー「コーニュコピア(Cornucopia)」から、本年3月に東京ガーデンシアターで行なわれたステージの模様をお届けします。このワールドツアーは既に4年目を迎えているとのことですが、独特のオーラを放つ彼女の楽曲とステージングに対し、サウンドの核となったd&b audiotechnik 「Soundscape」(以下、d&b Soundscape)がどのような構成で、どのように使用されたのか、その結果は? 興味ありませんか!
また、更に今回は、このコンサート会場におけるショーのFOHエンジニアJohn Gale氏と、システムエンジニアのJack Blenkinsopp氏によるd&b Soundscapeのエンジニアリング・ワークショップ(d&b audiotechnik Japan主催)が行なわれましたので、その内容も含めてリポートしたいと思います。
リポート:三村美照(M&Hラボラトリー)

 グラミー賞に過去12回もノミネートされたアイスランド出身のシンガーソングライター、音楽プロジューサー、そして女優としても活躍中のビョーク(Björk)。ユニークなステージコスチュームでも知られる彼女のライブコンサートが東京有明にある東京ガーデンシアターで行なわれました。この会場は観客席が4階層まであり8000人を収容できる日本最大の劇場型イベントホールですが、この大空間で繰り広げられたグラミーアーティストとイマーシブ・オーディオによる幻想的なパフォーマンスは、4階席まで隙間なく埋まった超満員の観客を魅了しました。

イマーシブ・オーディオの種類

 ライブのリポートに先立ち、少しテクニカルなお話を。

 今まで『プロサウンド』誌で何度かこのイマーシブ・オーディオについては書いてきましたので、従来のLRステレオとの違いやオブジェクトベースであること等の説明はそちらに譲るとして、今回は音像を定位させるための基本的なテクノロジーの比較をしたいと思います。これには大きく分けて2つの方式があります。

 1つ目はL-ISA(L-Acoustics)やSpaceMap(Meyer Sound)に代表されるレベルブレンディングという方法。これはコンソールのパンポットのように音量の差により音像を移動させる方式を発展させたもので、通常のステレオのようにLRの2chだけではなく数多くのスピーカーを配置し各音量をコントロールすることで、それらのスピーカーで構成される平面や空間の中に音像を定位させる方式です。

 2つ目は今回のd&b SoundscapeやSARAⅡ(Astro Spatial Audio)に代表される波面合成技術から発展させたアルゴリズムで、音量と共にディレイを用いて波面を合成し音像を定位させる方式です。

d&b Soundscapeで使用されている技術

※8月23日 一部内容を修正しました。一部内容を修正しました。

 図1の(ア)を見て下さい。いまステージ上のA点に音源があり、その波面が図のように広がって行く状態があったとします。次にこの音源と波面をステージの前面に置かれたスピーカーを使って再現するにはどうすれば良いか考えてみましょう。まず波面から考えます。同図(イ)を見て下さい。いま客席の前方に7台のスピーカーが設置されています。d&b Soundscapeではこの部分のスピーカー台数として5~7台を推薦していますが厳密な数量の規定はないようで、ケースバイケースで必要数を決定するとのことです。

図1 d&b Soundscapeの基本的な原理。Aは音源位置、⑥は最も音源に近いSP、“d”は音源位置の奥行き、“D”は各SPに入れるディレイ量を示す

 さて、この時Aの位置を仮想音源位置とするためには、その波面がAに最も近い⑥のスピーカーに到達した時、つまり「ア」の位置に到達したときには①のスピーカーの波面は「イ」の位置にいなければなりません。しかし実際には①のスピーカーの位置にいますので「D」の距離分のディレイを加えることで①が作る波面は「イ」の位置になります。このようにして⑥以外のスピーカーにAまでの距離から「d」を差引いた距離分のディレイを与えることで図のような波面が再生されると思いませんか?勿論各スピーカーはその位置からそれぞれ点音源状に音が広がりますので完全に波面が再現できる訳ではありませんが、その時に出来た各スピーカーによる波面の「包絡」が新しい波面を合成すると言うホイヘンス-フレネルの原理(※1)をベースにした独自のアルゴリズムにより、求めたい波面の近似的な波面が合成されます。この疑似波面は客席の広い範囲で(ア)のような状態として認識することが出来ます。これが基本的な考え方です。

 なお、d&b Soundscapeでは“D”と“d”の全てのディレイを用いるモードを「Full」、“d”を無くした“D”のみのモードを「Tight」、全てのディレイをなくしたレベルのみのモードを「Delay-Off」と呼んでいます。

※1:ホイヘンス-フレネルの原理
伝播する波面から二次波面が生成されると、その包絡によって新たな波面が生成されると言う原理(図参照)。音波や光の波の回折現象の説明に用いられる。WFS(Wave Field Synthesis:波面合成)の基礎になった原理。

180と360

 d&b Soundscapeだけではないのですが、イマーシブ・オーディオを使用する場合、その演出内容や予算によって音像を定位させる場所がステージ側だけかステージを含む観客席全体なのかを選択することが出来ます。

 d&b Soundscapeではステージ側だけに音像定位を作るシステムを「180」、観客席を含む全周型のシステムを「360」と呼んでいます。参考までに「270」や「250」など、会場の形状により非常に自由度の高い対応が可能とのことです。

 昨年12月に『プロサウンド』誌で京都のロームシアターで行なわれたパフォーマンスの「NAQUYO」をお伝えした時にもd&b Soundscapeが使用されていましたが、その時はステージ上に観客を入れステージと観客席が一体となっていたためにステージ上の全周を囲む360というスピーカー構成となっていました。一方、今回は客席が多階層になっているエンドステージ型ですので180システムが採用されていますが、ツアーの中ではビョーク本人の希望もあり出来る限り360が使用されたそうです。これについては後で紹介するワークショップ編で少し触れていきます。

 d&b Soundscapeには「En-Scene」「En-Space」と言う2つの機能、それに専用の「En-Snap」というソフトウェアがあります。次にそれらについてご説明しましょう。

En-Scene、En-Space

<En-Scene

 実際にオブジェクトのポジショニングを行なうのがこのEn-Sceneソフトウェア・モジュールです。各オブジェクト対して操作可能なパラメーターは、
・X/Yポジション
・オブジェクト・イメージの大きさ(オブジェクト幅の広い狭い)
・ディレイのOn/Off(前述「d」の有無と全てのディレイOff)
です。

 オブジェクトの大きさは図2のように丸いオブジェクト・シンボルの下部にある円弧の大きさで表されます。この大きさによりスピーカーに振り分けられる音量バランスが変化しますので、イメージが大きくなるほど使用されるスピーカー数が多くなります。勿論その時のオブジェクト自体の音量は変化しません!

図2 オブジェクトのシンボル。下にある円弧の長さが音源の大きさを表す。この絵ではBassよりもGuitarの方が音源の幅が広い。

 またダイナミックな動きを伴う場合はDAWのプラグインを用いてオートメーションの記録が可能です。この時、速い動きが必要な場合は、より演算速度を速めてスムースな動きが出来るようにすることと、ドプラー効果による変調を避けるために前述の「d」のディレイをなくしたTightというモードが用意されます。この場合は同図のステージ上のAでは無く⑥のスピーカー付近から音が出ることになりますが、この時もイメージの大きさの設定は有効です。更にディレイ自体をなくしてレベルのみによるポジショニング(レベルブレンディングを行なうDelay-Offモードも用意されています。

 実際の会場におけるスピーカーのレイアウトは事前にd&bのArrayCalcに入力してシミュレーションが行なわれますが、このレイアウトは自動的にEn-Sceneでも認識されます。このようにd&b Soundscapeで必要な操作は、従来から行なわれているd&bワークフロー内に自動的に取り込まれます。

 なおd&b Soundscapeでは、全てのスピーカーをファンクション・グループ(FG)というものに分類して制御します。このFGはメイン以外にアンダー・バルコニーやディレイ、フロントフィル、サラウンド、更にポジショニング用サブローに加えて全体補強用のモノのサブロー出力が用意されるなど非常に充実しており、実際のSR状況に則した構成となっています。この辺りはさすがにSRを熟知しているd&bといった感じがありますね。そしてこれらが総合的に後述のレンダリング・エンジンであるDS100で処理されます。

 因みに、このファンクション・グループ(FG)ですが、FG自体がツリー構造となっており、それぞれが互いの存在を認識しながら関連して動作します。この点が他社のイマーシブ・オーディオのオブジェクトの処理方法と大きく異なる点です。これによりオブジェクトがスピーカー構成の異なるFG間を移動しても音量感や音質の差を出来るだけ少なくするような制御が行なわれます。

 例えば360システムの場合、メインFGやフロントフィルFGはオブジェクトの移動の際に360FGの存在を感知し、フロントフィルFGはオブジェクトがステージから離れた際にミュートされ、音量や音質感を変えること無く360FGにそのまま移行される、というような動作が行なわれます。

<En-Space

 これは空間の広がり感、つまりリバーブを付加するモジュールです。その残響音は実在する部屋や空間のインパルス応答を測定し、そのインパルス応答データから畳み込み演算を行なうことで生成していますので、いわゆるサンプリング・リバーブ(コンボリューション・リバーブ)です。このインパルス応答データの取得には独自の音源スピーカーと測定方法が採用されており非常に再現性が高いとのことです。

 また、このサンプリング・リバーブには他にない非常にユニークな特徴があります。それは音源の位置が演算の中に組み込まれることです。

 この演算には4ゾーン×64outのコンボルバー・マトリックス(畳み込み演算マトリックス)が使用されます。この4ゾーンとは先程の音源の位置を示すもので、ステージ上のL・C・Rと客席の4つ音源位置で測定されたインパルス応答を用いてゾーン毎の畳み込み演算が行なわれます。この4ゾーンの選択は、En-Scene内でプロットされたオブジェクトの位置により自動的に行なわれます。今回の公演でもステージ上の上手奥にある小部屋でビョークが歌うシーンではこれが効果的に使用されていました。

 なお、この4ゾーンにはマイクを入力することも可能で、舞台や客席上部にマイクを設置してそれを入力することで残響付加装置にすることができ、この機能だけの納入実績もドイツを中心に数カ所あるそうです。

 用意されている残響パターンはホール系が8つ、大聖堂が1つの計9パターンで、その中から1パターンを選択して実行します。ただし、残響の付加量はオブジェクト毎にコントロール出来ますが、残響パターンは全体で一つだけの選択となります。

En-Snap

 これはd&b Soundscape専用のキュー・オートメーション・ソフトウェアで、キャッツやオペラ座の怪人の作曲者として有名なアンドリュー・ロイド・ウェーバー氏のサウンドデザイナーであるギャレス・オーウェン氏との共同開発によるものです。

 複雑なCueを多用するウエストエンドやブロードウェイで実際に使用されており、非常に実用性の高いソフトウェアとなっています。ただ、これは前述のEn-SceneやEn-Spaceのように最初からバインドされていてアクティベーションすればすぐに使えるものとは異なり、無料なのですが使用する際には別途d&bに申請が必要になります。また、このソフト用には別途PCも必要になるのですが、オブジェクト・パラーメーター、En-Spaceセンドレベル、En-Space ルーム・セレクション、En-Space音源位置(ステージL/C/R・客席)等をCueとして保存し、コンソール上から手動で呼び出せると同時に外部トリガー(OSC、MTC)でも呼び出せるようになりますので、前述のように複雑なCueを多用する場合には非常に有用でしょうね。このEn-Snapを使用するときのDS100回りの接続は図3のようになります。

図3 ツアーシステムのシグナルフロー

レンダリング・エンジン DS100

 システムの中心となるのがレンダリング・エンジンであるDS100です。これは最近の信号処理エンジンは殆どがそうなっていますが、DSP素子を使用しないLinuxによるCPUマシーンです。

 この機器は基本的には64ch×64chのマトリックス・マシーンですが、各クロスポイントにディレイとレベルコントロールを持ちますのでディレイ・マトリックス・マシーンです。また前述のEn-Space機能もありますのでコンボリューション・マトリックス・マシーンでもあります。

 各入力部と出力部はPEQ、ディレイ、レベル、ポラリティーの各コントロールを備えています。一方、入出力形式はDanteとAES67のみで、アナログ入出力は用意されていません。外部コントロールは基本的にOSCで行ない、ダイレクトに接続可能なDiGiCo、Avid、LAWOのミキシングボード、それと後述のEn-Snap用のPC等ではこのプロトコルでの制御が行なわれています。

 また、リダンダント機能としては、ArrayCalc上でDevice Redundancyを設定すると、1つのR1ファイルから2台のDS100に自動的に同じ情報が送られ、片方がフェイルした場合でももう片方には同じ情報が同期出来ていますので、Danteのパッチリコールのみによる短い切り替え時間での公演続行が可能です。また、プロセス・レイテンシーも十分に短く、1.6msec(fs:96kHz、Dante入出力時)とアナウンスされています。その他のスペックは表1をご覧下さい。

アウトプット・システム

 続いて、今回のアウトプット・システムを見ていきましょう。

 メインスピーカーはメインFGとして(写真1〜2)のようにKSL×14台のクラスターが5基で構成されています(メインFG :KSL8×10台+KSL12×4台)。

写真1 180システムとして稼働するd&b SoundscapeのメインFG(ファンクション・グループ)。中央の5アレイがメインスピーカー。KSLだがそれぞれ構成が微妙に異なっている(本文参照)。また、両外がアウトフィル。V8が10台+V12が2台の構成。これにはメインFGの音をモノミックスして送っている

写真2 メインFG。センター部分にフライングされたSL-Sub×4台が見える

 メインFGの両側にはモノ・アウトフィルFGがあり、V8×10台+V12×2台で構成されモノラルで再生されています。このモノラルの音にはメインFGの音がミックスされているのですが、各音源位置に合ったディレイが加えられて左右のアウトフィルにそれぞれ送られています。つまり同じモノラル・ミックスでも各オブジェクトのディレイ値は左右で異なるということです。これはイマーシブ・オーディオならではの重要なポイントですのでワークショップ内( https://online.stereosound.co.jp/ps/17643057 )の設計ワークフローのところも参照下さい。

 メインFGの中央部分にはSL-Sub×4台のフライングサブがサブFGとして中央クラスターの後ろに吊り下げられています。

 フロントフィルFGにはY10PとSL-Sub×2台のセットが10箇所(写真3〜4)、更にその外側には1階用アウトフィルとしてV10Pが1台グランドスタックされています。今回、このSL-Sub×20台によるモノサブFGは全体として45Hzで約30度の指向性を持つようにArrayCalcで設定されています。また、3~4階用のディレイFGにはV12×6台が5アレイ設置されています(写真5〜6)。

写真3 ステージフロントFGのスピーカー。Y10PにSL-Sub×2台のセットが10基。さらに上手下手の大外にもV10Pが1台グランドスタックで設置されている

写真4 ステージフロントFGのスピーカー。Y10PにSL-Sub×2台

写真5 ディレイFGのスピーカー(1)。全体的にはこのような感じでセットされており、主に3~4階席を狙っている

写真6 ディレイFGのスピーカー(2)。V8×6台のアレイを5箇所に設置

 一方、ステージ内のモニターですが、床置きとしてE8×1台、M2×2台、M4×4台、サイドフィルとしてY8×4台のクラスターがステージ両サイドからフライングされています。なお、インイヤーモニターはビョーク本人の意向で使用していないそうです。また、これらを駆動するパワーアンプは全てD80で構成され、合計69台が使用されています。使用された主要機材については表2を参照下さい。なお、個々の商品に関する詳細はd&bのH/Pをご覧下さい。 https://www.dbaudio.com/jp/ja/

システムシグナルフロー

 今回のシステムはDanteネットワークが基本となっており、FOHとアンプラックとの間は光ファイバーで接続され、アンプラック内のDS10によりAESに変換されて各パワーアンプ(D80)に入力されています。シグナルフローの分かるブロック図を図4に示しましたので参照下さい。

図4 シグナルブロー

 次回は、FOHエンジニアのJohn Gale氏と、システムエンジニアのJack Blenkinsopp氏によるd&b Soundscapeのエンジニアリング・ワークショップの模様をお伝えします。

 

筆者プロフィール
三村美照(みむら・よしてる)
音響システム設計コンサルタント。1978年「スタジオサウンドクリエーション」に入社、レコーディング・エンジニアとして経験を積む。その後、業務用音響機器の設計業務を経て、1989年から本格的に音響システム設計に従事、現在「M&Hラボラトリー」代表取締役を務める。仕事においては「ベストよりも常にベター、ベストは逆に「終わり」を意味する。私たちの仕事に終わりはない」、「常により良いものを、よりシンプルに」をポリシーに「サウンドシステムの音」を築き続けている。豊田スタジアム、長居陸上競技場、東京ドーム、大阪フェスティバルホール、国立京都国際会議場等をはじめ実績例は100件以上と多岐多数。
Email:mhlab.mimura@gmail.com

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