§19 ヘッドホンの音づくり(後編)

 本稿の前編ではヘッドホンの音づくりについて、音響設計プロセス、特性評価方法、および目標特性の考え方を紹介してきました。今回は、更にその先の音づくりプロセスとして、音響調整の技法や「良い音」の考え方、更には顧客視点での音づくりについて思うことを紹介してまいります。

●ヘッドホンの音響調整

 目標特性を決めて、試作工程の中で音作りを進めていく上で、ヘッドホンの特性を調整する方法の一つは部材の音響仕様を選定することです。

 例えば、振動板の素材の厚みや形状、通気孔の形状や大きさ、音響抵抗素材の面抵抗や体積抵抗といった素子を変化させるのですが、ここで各部材の音響仕様と再生特性との関係を概念的に、あるいは定量的に考えるもとになる「音響等価回路」という理論体系があります。

 電気回路の設計であれば、電気抵抗やコイル、キャパシターといった素子の接続や組み合わせで特性を制御することができるのですが、音響設計の部品も電気回路の素子と等価な概念でとらえ、回路図のように接続動作を理論的に推論しながら制御することが可能です。音響等価回路の知識を持つ技術者であれば、ヘッドホンの音響設計の場で内部の構造を見る時には等価回路の視点で見ていて、内部部品の間で発生する音響現象を推定しつつ、試作を行うわけです。

 ちなみに音響設計者は、オーディオ製品でなく日常触れる物品を見る時にも、音響等価回路的なモデルとして見ていることがあります。例えばビール瓶を見た時には、ボディ部分は電気回路のキャパシター、注ぎ口部分はインダクターと等価で、これらが直列共振回路を形成しているという見え方をしていて、注ぎ口に斜めに息を吹き込めば発生する「ボー」と鳴る共鳴音の成り立ちを理解したりするものなのです。

ビール瓶によるヘルムホルツ共鳴の音響等価回路

設計者の視点で、日常的に見えている音響等価回路の例として、ビール瓶の共鳴現象をモデルとしてご紹介します。

 およそ目に見えるすべての物の組み合わせによって発生する音というものは、概ね可聴範囲に収まるようになっており、人は聞こえる音によって発音源の物の大きさ、形状、重さ、硬さといった特徴を推し量ることができるものなのです。

 しかし、近年の音響設計ではこのような等価回路の概念で音響構造を考える必要性は減ってきている気がします。PCによるシミュレーション技術が進化していますので、内部構造の3次元データを入れれば自動的に音の特性はグラフで出力されてきますし、物理的に部品をいじらなくてもヘッドホンに内蔵された信号処理チップでイコライザーを操作すれば所定の特性に変更できるのですから、あえて音響等価回路を学ぶ必要性がなくなっていくのは必然なのです。

 個人的には、古い技術がこういった進化によって淘汰されていくことを素晴らしいと思う反面、音響製品が音響構造という実体感で掌握されているのでなく、ブラックボックスのままに完成してしまうことで失われるものもあるという懸念を抱くことも実はあります。

●良い音とは

 最終的に、何が良い音と言えるのかという観点が実はもっとも重要な点ですが、同時にそれは抽象的な概念なので、明確な正解は得られにくいものだと思います。本稿では、音楽再生の枠内での「良い音」について、読者の皆様と一緒に考えたいと思います。

 そこで一つのヒントになりそうなのは、「原音再生」という概念です。

 人は、生演奏の音楽に触れて感動を覚えた経験があると、帰宅後、あるいは長い年月を経たとしてもこの感動を追体験したいと考えます。それこそがオーディオの生まれた原点ですし、オーディオが提供する体験価値の核心なのだと思います。

 しかし、人々の音楽体験というものは様々なので、必然的に原音のとらえ方にも多様性があります。

 例えば、オーディオで「原音」というと、典型的なものとしてはコンサートホールの観客席で鑑賞するオーケストラの音を思い浮かべる場合が多いと思いますが、それが唯一の理想ではなく、演奏者にもっと近い聴取点や演奏者位置でのアクティブな音体験を理想にしている人もいます。人それぞれに生活の中での音楽との接し方が異なるので、それぞれの原音があるのです。

 また人の生まれついての属性や性向でいうと、例えば欧米のキリスト教文化圏の方であれば幼少期から教会に通っていて、聖堂の長い残響を伴って合唱やオルガンのハーモニーが空間を満たす調和感の要素が音楽の中で重要な要素として沁みついている印象があります。またアフリカや南アジア、ケルト地方のようにダンスを伴う音楽体験をベースに持っている人たちには、リズムのもたらす躍動感をもっとも大切に感じています。

 このように、音楽を聴く時の注目点が異なっていますので、国民性としての傾向にも差があるのではないでしょうか。

 では日本人や東アジアの音楽体験のルーツがどのようなものかというと、旋律の節回しに付随する抑揚や静音に向かう繊細なニュアンスが根本にあるといった印象があると私は考えています。

言語学的な「音」の発祥から見た文化比較

 音の概念を文字の発祥という文化の観点で掘り起こしてみると、欧米と日本やアジアで音のとらえ方が少々異なることが分かる気がします。

 まず漢字の発祥過程を見ると、「音」が示すものは「神の啓示」です。古代の人々が神へ祈りをささげる際には、神への祝詩(のりと)を捧げる器(口:さい)の上に、「もし祝詩に嘘偽り有らば戒めを受ける」という誓いの針(辛)を置いて祈ると、神が深夜の闇の中でかすかな音を立ててそれに答える、という信仰が表されているのだと分かります。そんな様を表す古代文字が「音」という漢字の起源となっているのだそうです。

 片や英語の「Sound」はというと、ラテン語圏での 「Son」(太陽)を発祥とする言葉、「Sonare」が語源ですが、これはまばゆく神々しく響き渡る力強い音を表しています。

 西洋の音の概念から生まれた「Sound」という言葉の、東洋で生まれた漢字の「音」との差には、その宗教的な向き合い方の違いが見えて、実に対照的で面白いと思います。

 原音体験の場でいうと、近年では映画鑑賞などで空間の音と一体のものとして表現される音楽、更にはダンスの体感とともにアクティブに楽しむ音楽など、実に様々な原音の嗜好があることが分かります。

 原音体験を再現すること以外でも、音の感動をもたらす「良い音」の概念はあると思います。

 私が音響設計を始めた頃は、ウォークマンとともにヘッドホンでのオーディオ聴取が若者たちの間に普及していった時代ですが、そんなお客様の中には、「憧れの歌手が自分のすぐ耳元で歌ってくれていて嬉しい」といった声もあって、当時ヘッドホン再生での頭内定位が課題と考えていた私は、技術的な正解が必ずしも顧客に求められるものとは必ずしも一致しないことを学びました。

 更に近年ではDTMやゲームといったバーチャルなエンタテインメントで提供される音の中には、完全な合成音で構成されていて「原音」の存在しないものも出てきています。

 つまり、オーディオはすでに「過去の感動の追体験」だけでなく、「未知な世界」を体験させてくれる対象のひとつになっていることも考えなくてはなりません。

 私は過去に多くの優れたオーディオ製品に接してきた中で、それらの製品が提供する画期的な音世界に触れることによって、オーディオ技術の深みや音楽自体の多様な楽しみについてたくさん学ぶことができたと思います。そのような貴重な体験を提供してくれる高度な音体験というものは、実は既成の顧客体験の中に見出すことは難しいのではないでしょうか。私自身も、特にフラッグシップと呼ぶような機種の音作りを担当する時には、何かしら従来と異なるアプローチで未体験な音の実現ができないかものかと考えていました。

 このように、商品としての良い音とは、作り手が顧客と共感したい音楽の追体験、あるいは顧客に届けたい新しい音体験、このふたつのいずれかということになるのではないかと思います。

●主観と客観

 顧客に届けるオーディオ製品の音づくりで大事なのは、「顧客視点」です。原音再生にしても、未知なる音体験にしても、それを顧客がどのように受け止めるかという視点無しに商品価値を生み出すことはできません。

 オーディオ製品での「良い音」について物理的な判定基準は存在せず、あくまで「音楽が楽しく聞ける」という官能評価こそが唯一の拠り所です。

 これが音響設計のもっとも難しい点で、設計者の「主観」で音質を決定してゆくことになるのだけど、最終的に完成した音質は設計者の独りよがりにはならずに、「顧客にとっての良い音」という「客観」を実現しなければならないのです。その主観的な拠り所を客観的に掌握/実現していくことが、音響設計で一番難しい部分ともいえます。

 前述のように顧客が求める原音には多様性があります。したがって音響技術者が音作りをする時には、最初にターゲットにする顧客の音の楽しみ方を学んで、顧客が体感している様々なジャンルの音楽の楽しみを共感できるように、自らの感性を成長させることが必要なのです。それは、顧客調査によってデータとして得られる音の傾向理解ではなく、自らの感性を顧客と同じ位置に置くことです。主観に頼った音質の判断であっても、そうすることではじめて客観的な音づくりが可能になるのだと思います。

 オーディオ製品開発の中で「音づくり」は顧客のためのもっとも重要な核となる部分です。私の拙い記事が少しでも今後のオーディオ製品開発の一助となって、オーディオの世界そのものを広げていくことにつながれば良いなと思っています。

「良い音」と感じる要素とは?

 ここでひとつ、料理の世界で興味深い書籍がありますので、ご紹介いたします。京都大学農学研究科、伏木 亨先生の著書で「おいしさを科学する」(ちくまプリマー新書)です。

伏木 亨著「おいしさを科学する」
(ちくまプリマー新書)

 ここでは、「おいしさを構成する要素」として、下記の4つが述べられています。

1)生理的欲求にかなうもの:栄養価があるもの、寒い時の温かい食べ物など
2)文化的背景に合ったもの:幼少期から食べなれた味、地域に根付いたもの、安心感
3)偶然性、意外な味覚を与えるもの:栄養や安心の必然性がないが、個人嗜好に合う刺激
4)付随的に提供される情報:材料の産地や価格、見た目などの付加的な情報

 このような、人間の基礎的な欲求から知的な満足感までの組み合わせで、人は食べたものを「美味しい」と感じるというのです。

 この4つは、あくまで味覚に関する話ではありますが、私は聴覚における「良い音」と感じる要素にも当てはまると思うのです。つまり、オーディオに置き換えると下記のようになります。

1)生理的欲求にかなうもの:優しい声、心地よいバランスの音
2)文化的背景に合ったもの:幼少期から聞きなれた音、地域に根付いた音、安心感
3)偶然性、意外な聴感を与えるもの:個人嗜好に合い、やみつきになる刺激音
4)付随的に提供される情報:材料の産地や価格、デザイン、メッセージなどの付加的な情報

 こういった類推関係を理解し、オーディオ製品を作るうえでこの4つすべての視点でお客様に満足感を与えることを忘れないで製品づくりをすることが重要なのだと、私は思っています。特に4つ目の「情報」の重要性を思うと、企業としての音づくりが技術者だけでなく、販売に携わるメンバーの貢献も大変に大きいことを感じます。