§18 ヘッドホンの音づくり(前編)
近年は色々なブランドから多くのヘッドホンが販売されていますが、商品を提供するメーカーとしても、また商品を選択するお客様としても、「音質」はもっとも大事な要素に位置付けられていると思います。メーカーごとに異なる音へのこだわりがあり、また機種ごとの音質にも商品の企画意図や設計者の様々な意図が反映されていて、そういった様々な想いが商品を通して見えてくることはオーディオの楽しみのひとつでもあります。
今回の記事では、長年ヘッドホン設計に携わってきた筆者なりの経験に基づいて、ヘッドホンの設計現場で考えていたことや、「音質追求」について思うことを2回にわたって紹介したいと思います。
●ヘッドホンの音響設計プロセス
メーカーによって、あるいは設計者個人ごとに音響設計のプロセスは異なると思いますが、私自身が在職中に新機種設計にあたって心がけていたことは、最初に実現したい音を自分自身の音楽体験の中でイメージすることでした。機種ごとで目指す音のゴールは違ってくることもあります。
音響設計者としての理想と思える音ゴールのイメージというのは自分の中で常に更新されていくものなのですが、例えばフラッグシップモデルを設計している最中であってもどこかで不満な部分が出てきて、別のアプローチでの音の方向性追求を考え始めており、それが起点となって後に新機種の企画が始まることが多かったと思います。
音のイメージとは抽象的なものですが、これを言語化して残すことも心がけていました。それが月日をかけて機種を生みだすにあたって初心を失わずに、また組織で同じ思いを共有して音づくりをしていく上で、とても重要なことだったと思います。
次に、音響設計の立場でその抽象的なゴールを実現するための物理的な指標を仮に定めます。
いわゆる「音圧周波数特性」(Sound pressure frequency response、以下 特性)はそのひとつですが、ヘッドホンの特性は特有な計測法に頼るもので、グラフとしての上下動のない「フラット」なカーブが基準とはいえないから複雑です。しかし音響設計のように成果の評価が曖昧な行為では、定量的な指標を置くことでマイルストーンとできるので、開発進捗を可視化するためにもこれは重要なプロセスです。
音響特性の目標を決めてからは、試作/試聴/計測の3つの工程の繰り返し作業になります。
例えば、ある段階で試作品を試聴した時にボーカリストの発する「s」の子音が刺激的に感じられ、その特性を見たら5kHzのピークが強く出ていたとしたら、この聴感と特性間の因果関係を特定し、ピークを取り除くように試作仕様を変えるトライを行います。ピーク発生の原因を理論的に考察し、音響抵抗の部材の調整などを試作品に施し、また試聴と計測を行った上でそれが聴感の改善に対して寄与したかを確認する。そんな風なトライアルを積み重ねていって、1段階ずつゴールの音質に近づけていくわけです。
この作業は、軽微な設計内容の場合でも100回くらい、音質追求のハイエンド機などでは1000回ほども繰り返されることになります。
また、特性目標はあくまで音質目標を実現するための仮説にすぎないので、この繰り返しの中で聴感の理想と計測目標に不一致があれば、随時で見直し更新されるものだと思います。
音質設計プロセス全体のフロー
設計者は、聴覚理論や音響工学の基礎知識の蓄積とともに、この試作ループのなかで、部品細部の音響仕様がどのように特性に関わるか、および特性上の特徴部分がどのような聴感をもたらすかの紐づけ体験を多く蓄積することで、音響設計のスキルを高めていくことになります。
●ヘッドホンの特性計測
では、ヘッドホンの特性がどのように計測されるかというと、一般的にはHATS(Head and Torso Simulator)やカプラー(疑似耳)と呼ばれる国際規格で規定された専用の器材を使って行われます。これらの器材にはマイクが内蔵されており、ヘッドホンを装着して人間の鼓膜位置で発生する音に相当する特性を計測できるように設計されています。
左から、HATS(IEC 60318-7)、カプラー(IEC 60318-1、OE/AE計測用)、カプラー(IEC 60318-4、IE計測用)
スピーカーの特性計測であれば、スピーカーの前に置かれたマイクで空間の音をそのまま計測して評価できますが、ヘッドホン計測で用いられるのは鼓膜上の音圧なので、耳介での音の回折や外耳道の管共振などの影響で周波数特性を持つという点で、とても特殊なデータの扱いになります。スピーカーであれば「フラット」な特性カーブを以て物理的に色付けのない音と言えるけれども、ヘッドホン計測では特徴的な山谷を持ったカーブが本来の「フラット」な基準と考えられるのです。
下記のグラフは、HATSをフラットな音場空間に置いた時に計測される特性カーブの例ですが、3kHz近辺のピークをはじめとして特徴的な山谷が確認されます。したがって、ヘッドホンの技術者は、基本的にはこういった前提を理解しながら、計測された特性を評価することになります。
近年はオーディオ誌でもヘッドホンの特性計測結果が掲載されることがありますが、読者諸氏もこういった前提を理解した上で記事を受け止めていただけたらと思います。
B&K社 HATS製 HATS 4128の自由空間特性と拡散性音場特性参考図
なお、工業規格で決められたこれらの計測器はまだまだ完全なものとは言えない点もあり、計測器とヘッドホンの間の密着具合が人体とヘッドホンのフィット状態とは異なることによる測定誤差を持つほか、個々の人体が実際に持つ音響特性のばらつきまでを再現させることはできないため、あくまでも相対評価比較の参考として扱う必要もあります。このような測定器の限界を考慮して、人の外耳道に小型のマイクカプセルを挿入する計測方法(ANSI規格 S12.6など)もあり、ヘッドホン設計の現場では各社独自の工夫の中で、現行測定法よりも進んだ測定技術の開発も行われていると思います(ヘッドホンの計測法については、「プレミアムヘッドホンガイド」の特集にも詳細な記事を掲載しておりますので、ご参照いただけたらと思います)。
●ヘッドホンの目標特性
ここからは個人的な見方ですが、人の聴覚器官は複雑で、同じ音でも聞く時の条件によって様々な聞こえ方を呈するものなので、ヘッドホンとしての理想特性もひとつに定義することはとても難しいものだと思います。
以下でいくつか、目標特性を設定するにあたって配慮されるべき観点を技術ベースでご紹介しようと思います。
1)HRTFの指向性
HRTF(頭部伝達関数)とは、人が空間で音を聞く時に耳に届く音の規則性を関数として現わしたものですが、自由空間で発した音が鼓膜に届く経路での水平面HRTF標準値の特性例をご紹介します。
HRTF(水平面)平均カーブの音波到来角度への依存性
前節のHATS規準特性でご紹介したのは、この正中面(0度)の特性に相当していて、これが目標特性の基準のひとつということになります。しかし、我々が実際に一般的なステレオ録音の音源を聴く時には、各楽器音像は正中面だけでなくあらゆる方向に定位すべく、録音時のミキシングでPAN配置されています。しかし、PAN MIXERは音量ゲインだけで左右に音を配置しているので、個々の楽器配置での角度ごとにHRTFカーブを付与することができていません。
したがって、例えばヘッドホンの標準特性としてこの正中面の特性を基準として合わせこんだ場合は、ステレオ録音の再生ではセンター定位が明確になるものの、左右の音の広がり感では不足を感じる傾向を感じさせることも出てくるなど、どの方向性を重視して音づくりするか、という選択をすることになります。
ちなみに、この問題は、近年のオブジェクト録音とバイノーラルレンダリングによるHRTF再現によって解消可能です。特にHRTFは個人差が10dBほどもあるため、個人最適化のプロセスも付加されることで、更に音質精度を上げることができます。
2)ラウドネスの非線形性
オーディオ音源は、技術者によって録音時に最適と思われるトーンバランスに調整されたものをリスナーが聞くわけですが、トーンバランスというものは聴取する音圧レベルによって耳の感度が変わるため、録音環境と再生環境で聴取レベルが変化すると音楽的なバランス感も変化してしまいます。
下図は、人の感じる音量感覚(ラウドネス。単位はフォン)の周波数変化を示したグラフです。
ラウドネス(Loudness)とは、人間が聴覚で感じる「音の大きさの感覚」を数値化した指標。図はISO 226(2003)で規定された、フォンの単位で現わされるラウドネスの特性。人の聴きとれる最小限の音は0フォンと定義される。
このグラフを見ると、全体的に低音域に行くにしたがって耳の感度が低く、3kHz近辺の感度が部分的に高いことが分かりますが、重要なのはこのラウドネスが非線形に変化している点です。例えば1kHzで20フォンから80フォンのラウドネスに上げるのに60dBのゲインが必要なのに対して、50Hzでは40dBの上昇で足りるということになります。
したがって、楽曲の録音時点でトーンバランスを決めた時の試聴音ラウドネスと、同楽曲を再生する時のラウドネスに隔たりがあったとすると、バランス感は崩れてしまうものなのです。これは、ヘッドホンに限らないことですが、一般的に、録音時の試聴音量は生音に近く大きめであり、一般家庭での再生音量はそれよりも小さめなので、本来のトーンバランスを一般家庭で再現するためには低域のラウドネスを上げた方がフラットに聞こえる傾向はあると思います。
3)体感低音の喪失
人が音を感じる時に、特に低音に行くにしたがって耳に聞こえる音のラウドネスが落ちていきますが、体で感じる低音は逆に20Hzくらいの低音域にラウドネスのピークがあって、50Hz以下では聴覚を上回って強く感じられる傾向になると言われています。
しかし、ヘッドホンで音を聞く時にはこの低音体感は失われてしまうので、例えば低音で感じているベース音のビート感をスピーカー再生の体感を合致するように意図した時には、再生音圧特性として低音域特性を上げた調整を行うことが多くあります。
このように、人の聴覚の観点で理想特性の定義は多くの配慮すべき点があります。例えば、前述の低音体感を再生音圧で補完した場合、個人的な印象としては低音弦楽器のような広いスペクトラムを持った楽音では音色感が損なわれる印象を持つこともあります。
そもそも、生音の持つ多元的な音の特徴を、現状のオーディオフォーマットとヘッドホンの音響特性という限られた側面で切り出すことそのものが困難で、特定のアプローチ角度からの限定的な合致を試みているのが現状なのではないかとも思います。
オーディオは、エジソンの円筒管蓄音機に始まった頃の狭帯域高ノイズと単一チャンネルの音制約の中で、最低限の音楽のエッセンスを再現するように努めていた時から、ハイレゾでマルチチャンネルが扱える現代に至るまで、大きな技術進化をしてきました。その歴史の中では、オーディオ技術やフォーマットの進化した呼応した高度な音質を実感してきましたが、そのたびにまた新たな次の限界要素が見えてきて、次世代に託す課題が明確になってきたと思います。したがって、現在のオーディオのスペックにもまだまだ改善の余地があって、実は現在もまだまだ発展途上にあると考えられます。
また、実際の設計プロセスとしては、企業としての音ポリシーや機種ごとの音質ターゲットなども加味して目標特性を決めることになりますが、既成の概念や過去の慣習にとらわれずに多角的な視点を取り込んで、より高い音質を実現できる特性目標に挑戦していってほしいと思います。
(後編に続く)