§14 バイノーラルを考える

 本連載の第12回と13回では「イマーシブ・オーディオ」をテーマに、麻倉さんと入交さんとの座談会を掲載させていただきました。今回はそこで話題になった「イマーシブ・オーディオ」の中でヘッドホン固有な「バイノーラル」の技術について補足させていただきます。

 「バイノーラル」とは、前回の記事で言及したように、人が左右二つの耳で音を聞くことで立体的な音空間を知覚する働きを指す言葉です。

 先人達がこの効果に気付いて、その理論体系を作ったり、録音音源を作って実証してきた歴史に私自身が学んで魅せられてきました。本稿では、バイノーラル関連の技術発展に貢献された二人の技術者を通して、バイノーラル体験の魅力についてご紹介したいと思います。

1)Harvey Fletcher

 オーディオにおけるバイノーラル技術の始まりが何かを考えるとしたら、音響学の大先輩であるハーベイ・フレッチャー博士(1884〜1981年)の名前を挙げなくてはなりません。

 フレッチャーは、音響技術者ならその名前を知らない人はいないと思いますが、その多岐にわたる経歴をかいつまんで箇条書きにすると下記のようになります。

・ベル研究所の音響研究所ディレクター(1928〜)
・ASA(アメリカ音響学会)の初代会長(1929〜)
・聴覚の専門家、初の電子増幅補聴器と聴力検査装置を発表(1925)
 ラウドネス特性「フレッチャー・マンソン曲線」提唱(1933)
・初のステレオ録音、ビニル媒体記録の実演(1931〜1932)
 その中で、ステレオ記録のためのフェーダー、パンポットを実用化
・バイノーラルの先駆者、初の集音用ダミーヘッドを発表(1933)
・死後35年たって、「ステレオ音響の父」としてグラミー賞受賞(2016)

 20世紀初頭、ステレオ集音の実験は多くなされていたものの、正規のオーディオメディアとしては1957年のLPコードを待たなければなりませんでした。しかし実は、1940年に映画の世界ではステレオどころかサラウンドの音声フォーマットまでがフレッチャーによって実用化されたのです。

 トーキー時代の映画のサウンドトラックは、モノーラル音声がフィルムに光学的に記録される「サウンド・オン・フィルム」と呼ばれる方式によっていました。

 そんな中で、映画で提供される音の進化を推進したのは、実はディズニーでした。ディズニーは、劇場で音楽を生き生きと再現する新しいサウンドシステムの開発に着手し、そこで彼らが声をかけたのが、革新的な音楽家のレオポルド・ストコフスキーでした。

 ストコフスキーはクラシック音楽の指揮者であり、後にアメリカ交響楽団の創設者として知られ、1920年代から30年代にかけて実験的なステレオ録音を推進していました。同じ頃、ストコフスキーはマルチチャンネルの録音技術に取り組んでいたフレッチャーにアプローチし、伝送の質を向上させる新しい方法を模索し始めていたのです。

 このシステムをベースに劇場作品としてリリースされたのが、1940年初演の映画『ファンタジア』でした。この時には、劇場に54個ものスピーカーが設置されたといいます。大戦中という世界的な混乱の時代に、このようなエンターテインメントの進化があったというのは、驚くべきことではないでしょうか?

 『ファンタジア』では、主人公ミッキーマウスの指揮に応じて、オーケストラの音が観客席の全周を縦横無尽に動き回る演出を実現しており、まさにサラウンドオーディオの記念碑的な最初の作品だったのだと分かります。

左は現在発売中のブルーレイ『ファンタジア ダイヤモンド・コレクション』(¥4,180、税込)。右がストコフスキーとフレッチャー

 このシステムの開発の中で、録音技術における多くの開発がなされた点は、フレッチャー率いるベル研の貢献が大きかったと思います。初のマルチチャンネルシステム、同時マルチトラック録音、パンポットの発明、コントロールトラックによるレベル拡張、クリックトラックの設定など、サウンド技術における重要な革新が生まれたのです。

 この中で、マルチトラック録音からのパンニングによる編集のスキームが確立したことが、個人的にはもっとも大きな技術進化だったのではないかと思っています。

パンニング(panning)とは

 ステレオやサラウンドなどの多チャンネルオーディオにおいて、音像定位を変化させる表現、またはその機能。単にパンとも呼ぶ。パノラマ(英: panorama)に由来する名前。

 2つのスピーカーで同一音声を再生し、その音量の比率に応じてスピーカーの中間、任意の位置に音像定位を作ることができる。(投野)

 話を「バイノーラル」に戻しますと、フレッチャーの功績のもう一つはダミーヘッドによるバイノーラル集音の技術を開発したことが上げられます。

 「バイノーラル」という言葉は、最初にフレッチャーによって使われたとも言われていますが、彼の作ったダミーヘッド集音システム「Oscar」は、1933 年のシカゴ万国博覧会で立体音伝送の実演に用いられ、好評を博しました。Oscarが置かれたガラス張りのステージの周りに、20 個から 30 個のヘッドホンが半円状に配置されており、ステージ上の人形の周りを演者が歩き回りながら話かけると、ヘッドホンを装着した人は自分の周囲にいる誰かから話しかけられたものとびっくりしたといいます。

ハーベイ・フレッチャー博士とダミーヘッド “Oscar”

 当時のフレッチャーが、Oscarの開発で音楽録音への応用可能性を模索していく中、多くの音楽家に声をかけてデモを行ったもののあまり関心を得られず、最初に興味を持ってくれた音楽家がストコフスキーだったということです。

 このように、オーディオの黎明期に、オーディオ技術と音楽芸術、そしてエンターテインメント作品のプロが集まり、そこからステレオやマルチ録音の技術発展につながっていった縁というものを、私はとても貴重だと思います。

2)Hugo Zuccarelli

 「バイノーラル」による録音作品が広く世の中に知られるようになった経緯を考えると、ヒューゴ・ズッカレリに注目したいと思います。1957年アルゼンチン生まれのズッカレリですが、ミラノ工科大学在学中に発表した「ホロフォニックス」の技術による作品は、バイノーラル録音で実証された、もっとも効果的なものだったと思います。

 ズッカレッリは、「人間の聴覚系は音の放射器であり、これを基準として入ってくる音と組み合わさることで空間に干渉パターンを形成しており、これを聴覚器官経由で脳が検出、解析することで音響空間を知覚する」と述べています。つまり、視覚におけるホログラフィー技術との類似の関係があるとして、「ホロフォニックス」と名付けたのです。人が聴覚で立体感を得る仕組みの概念として、たいへん興味深い視点だと思います。

 ズッカレリは、彼の理論を実践するためのダミーヘッド(“Ringo”と命名)と録音技術を開発し、多くのホロフォニックスによる録音を発表しています。

ヒューゴ・ズッカレリと、ダミーヘッド “Ringo”

 Ringoは独特な構造を持っています。その特徴は鼓膜に相当する位置に、振動板の前後両方の音を受ける構造の、いわゆる双指向性マイクを配置し、人体でいうところの鼓膜裏の容積から鼻に抜ける耳管まで構造を再現した点にあります。

 ホロフォニックス録音の音源は、1983年に “The Matchbox Shaker” と副題が付けられたCDとして米CBSからリリースされており、頭の周囲でマッチ箱を揺する音や、ヘアドライヤーの風音などが、上下、左右、前後の遠近交えて動きを再現する実験音源として収録されています。ヘッドホンで再生した時にこれほど明確に音場空間を再現した音源は当時画期的でしたし、今でもこの品質にあるものは少ないのではないかと思います。

 このCDアルバムの音源は、一部YouTubeでも公開されていますので、ぜひヘッドホンで試聴していただけたらと思います。

 ホロフォニックスは、ピンク・フロイド、ロジャー・ウォーターズや、マイケル・ジャクソンのアルバムなどで使用されました。マイケル・ジャクソンはアルバム『BAD』の「Speed Demon」のイントロ部分などいくつかのシーンでホロフォニックス・サウンドシステムを使用していますが、移動するバイクの音などが効果的に表現されています。

 マイケルは、Ringoダミーヘッドとともにベッドに横たわりながら、「I Just Can't Stop Loving You」の枕元での会話のシーンを録音したりもしています。

https://www.tumblr.com/mikegasmic-magic-blog/69131397192/mj-rocks-vintagepyt-38100-michael-jackson

 これらのホロフォニックスを使用して制作された楽曲は、ヘッドホンで再生することを前提とはしていないものの、ホロフォニックス録音の音源が、スピーカー再生でも印象的な音像定位を表現する点は注目されると思います。

3)ヘッドホンによるイマーシブ・オーディオ

 ここまでは、主にバイノーラル録音で功績のあった二人の技術者をご紹介しました。彼らによってバイノーラル録音の効果が知られていったことで、現在ではバイノーラル録音を用いてイマーシブ・オーディオを体験できる音楽や自然音、ドラマの作品は多く提供されています。

 一例として、Cheskyのバイノーラル作品も高品質な録音作品が多く、試聴体験されることをお勧めします。

 ちなみに、現存するイマーシブ・オーディオの記録方式としては、大きく分けて下記の4つがあります(詳細はコラムを参照)。

・マルチチャンネル記録
・オブジェクト記録
・アンビソニックス記録
・バイノーラル記録

 いずれの記録音源であっても、スピーカーで試聴するためにはマルチチャンネル信号へのレンダリング、ヘッドホンで試聴するためにはバイノーラル信号へのレンダリングが必要です。

 また、現代のエンターテインメントのコンテンツは多くのカテゴリーを有していて、放送、映画、ネット配信、ゲームなど多岐にわたっています。その音声がより没入感のある高品位なものになっていくのは必然です。

 オーディオは、その技術や事業としての進化がすでに飽和状態にあるという見方をされることもあるようです。しかし、前回の対談記事でも触れさせていただきましたように、イマーシブ・オーディオや、そのバイノーラル再生の技術エリアにはまだまだ広大な未開発エリアがあり、私は今後とも将来のコンテンツ進化含めて、大きな期待を持って注目していきたいと思います。

マルチチャンネル記録

 再生するスピーカー位置をあらかじめ定義して、それぞれのスピーカーチャンネル用の音声トラックにパンミックスで音を振り分けておく記録方式。

Dolby Atmos 7.1.4chのスピーカーレイアウト例

オブジェクト記録

 楽器や登場人物ごとの音声を1オブジェクトとして、それぞれの音声と各オブジェクトの位置情報(X、Y、Z)などのメタデータをトラック記録する方式。

オブジェクト記録のレイアウト例

アンビソニックス記録

 集音点1点に対して、複数の指向性マイクと無指向性マイクを配置し記録する方式。再生時には、指向性の合成によって特定の指向成分だけを抽出することが可能。

アンビソニックス/Bフォーマットの指向配置例、および指向性合成演算の例
※Bフォーマットは、YouTube 3Dにも多くの音源が上がっています。

バイノーラル記録
 ダミーヘッド集音による2チャンネル記録の方式。および、そのヘッドホンによる再生方式。チャンネル方式やオブジェクト方式の記録も、ヘッドホン用のバイノーラル信号に変換可能。

バイノーラル記録でのダミーヘッド活用例