ヘッドホンによるイマーシブ・オーディオの楽しみ方についての特別座談会後編をお届けする。前回は入交さんが制作されたイマーシブ音源を麻倉さんのオーディオルームで再生した感想や、これまでどんな風にイマーシブ・オーディオを楽しんできたかについて語り合っていただいた。そこではバイノーラルレンダラーによって音が違うという新しい発見もあった。後編でも、ヘッドホンによるイマーシブ再生に関する貴重なお話が飛び出している。(Stereo Sound ONLINE)

ーーここから座談会後編に移りたいと思います。改めて、入交さんはイマーシブ・オーディオについて、どのように考えているのかを教えていただけますでしょうか?

入交 イマーシブ・オーディオの普及のためにも、ヘッドホンで気軽に楽しめるようになるのは重要だと思います。さらにそこで個人化適用するのは敷居が高いので、そういった手間なしで楽しめる汎用的なレンダラー技術が必要でしょう。その方法として、今日聴いていただいた中では、僕はAUROヘッドホンが一番いいと思っています。

 実は、個人化適応は聴いているうちに獲得できるんです。僕自身は色々な技術を聴いてきているので、すぐに適応できて全部立体音声として聴こえるんですが、初めての人はそれがなかなか難しいかもしれません。

麻倉 それは面白いお話です。バイノーラルを聴き続けていくことで、脳がだんだんそれに適応して前から音が聴こえてくるようになると。

投野 脳内に、そう感じるためのフィルターができるイメージでしょうか。メガネを新調した場合、買ってすぐは違和感がありますが、数日使っていると脳が視覚の歪みを補正して正しく見ているように感じるようになります。これと同じようなことが聴覚でも起きるということですね。

入交 そうですね、まったく同じ原理だと思います。どの方式でも、最初にヘッドホンでバイノーラル音源を聴いた時には違和感があるはずです。でも、例えば毎日1時間、2ヵ月くらい聴き続けると、だんだん馴染んでくるんです。

麻倉さんもヘッドホンでのイマーシブ体験を楽しんでもらえた様子です

麻倉 僕の場合、ヘッドホンのバイノーラル再生では前方から音が聴こえてこないんです。そうであっても、毎日聴き続けると前方から音が来るようなるのでしょうか?

入交 可能です。人間は、慣れによってある程度イマーシブ感を獲得できると言われています。

麻倉 ステレオの2chソースではなく、ちゃんと制作されたバイノーラル音源を聴く必要がありますか?

入交 その点は重要です。きちんとしたバイノーラルレンダラーを使って作られた音源が好ましいです。

麻倉 最近のAVアンプには、ヘッドホン端子からバイノーラル処理した信号を出力できる製品もありますので、ブルーレイや配信のマルチチャンネル音源をAVアンプにつないだヘッドホンで聴いてみるというやり方もいいかもしれませんね。

入交 今回の記事を読んでくれた方は、ぜひ2ヵ月くらい頑張ってヘッドホンのイマーシブ試聴を試していただきたいですね。

投野 ソニーでも技術開発担当者にはイマーシブで聴こえるのに、初めて試聴する被験者ではそうでもないという声があって、ひょっとして慣れがあるんじゃないかということは言われていました。

入交 「OTOBUTAI」のHPL音源を作った時にリサーチしてみたところ、立体的に聴こえる人と、聴こえない人がいたんです。50人くらいを対象にした調査でしたが、その時は頭の大きい人の方が立体的に聴こえないという感想が多かったんです。逆に女性とか、頭の小さい人はちゃんと聴こえる人が多かった。これは、HPLが頭の小さい人をモデルにして処理していることも一因だと思っています。

「OTOBUTAI」MBS主催の奉納コンサートのサイトはこちら

麻倉 僕は頭のサイズが大きいから、バイノーラルがなかなかちゃんと聴こえないのかなぁ(笑)。でも、このお話は本当に画期的ですよ。イマーシブを体験したいけど、スピーカーをたくさん置けないからと諦めている人も、ヘッドホンでバイノーラルを学習することによって、手軽にイマーシブ体験ができるようになるんだから。

 こういった新しい文化って、ちゃんと体験するにはある程度ユーザー側の努力や頑張りが必要な方が、モチベーションもが上がりますよね。今回の学習はそれに通じるものがあります。

入交 制作の現場では、もうひとつ面白いことがありました。最近はオーディオでも圧縮音源を聴くことが多いですよね。それらは圧縮の際に、大きな音にマスキングされて聴こえない音をカットするといった処理を行ってデータを節約しています。もちろんそこをカットしても音楽は普通に聴こえるんですけれど、中には聞こえていたはずの音も含まれているんです。

 というのも、ある時、新人のミキサーにミックスをしてもらったんですが、彼らは環境音として現場の雰囲気を感じさせてくれる音を小さなレベルで入れておくといった作業がものすごく下手だったんです。多分、圧縮音源ではそういった微小レベルの音が失われていて、そういった微小な音を聴くことに慣れていなかったんだと思います。ただ、そういう人たちも2週間ほど練習するとうまくなってくるんですよね。プロとしてはそこが聴き分けられないといけませんので、ここも訓練が必要でした。

麻倉 確かに、圧縮音源に慣れた人にWAVファイルを聴かせたら、音数が多すぎるといった感想がでてきますよね。これも同じ原因かもしれません。

投野 コンプレッションでも似たようなことがありますか? コンプをかける前の生音の印象と、コンプをかけてダイナミックレンジを調整して聴きやすくしたものとでは違いがあるんでしょうか?

入交 そこの違いはわかりませんが、最近はコンプの使い方も変化してきています。まずは従来のようにダイナミックレンジを圧縮する方法で、低い方を上げて、高い方は下げる。

 コンプレッションはオーケストラ演奏などをレコードに収めるためには必要な作業です。もっとも正しいやり方は、人間がフェーダーを使ってコンプレッションすることです。そうすると予測しながらやるので、自然にゲインリダクションができます。ここを機械に任せると、大きい音が入るとフェーダーを下げるんですよね。その後レベルを戻しますが、そのために独得な音色感になるのです。僕自身は戻ってくる際の音が耳障りなので、そういった処理はしないように注意しています。

 さらに最近は、高い方だけを抑えるというやり方があるんです。このやり方でも音は普通に聴こえるんですが、大きい音が全部潰れているので、ボリュウムが大きくなると細かいニュアンスが分からなくなってしまうんです。でも低い方はそのままなので、平均的に音が小さい場合は具合がいい。これはオーディオ的にいい音を楽しむということとは相反している方法ですが、大きい音を聞くことでストレスを発散できるといった用途もあるので、若い人が好んでいるのかもしれません。

麻倉 ところで、投野さんが、ヘッドホンでのイマーシブ再生で注目している点は何でしょう?

投野 そうですね。私がイマーシブ再生に期待していることの中で、音場の広がり以外で大きい要素は、残響表現です。例えばコンサートホールの最高の席でワンポイントマイクで録音した音と、実際にそこで聴いた音は違って感じます。これは残響の影響が大きいと思うんです。

 ボーズ博士が、「コンサートホールの音の80%は間接音だ」とおっしゃっていますが、確かにそうだと思います。コンサートホールの間接音は壁や天井などから反射して聴こえてくるので、直接音とは異なる方向から耳に届くために人間には分離して認識できます。しかし客席でのワンポイントマイク録音ではそれが一緒になってしまうので、2割の直接音と8割の間接音が被さって、混濁してしまう。(※8)これでは違う音になって当然です。録音技術者の話を聞いても、コンサートホールの残響成分は減らさないとならなかったんだそうです。

 でもイマーシブ・オーディオなら、ちゃんと間接音が異なる方向から聴こえてくるので、直接音と間接音は分離して聞き取りやすくなります。コンサトホールの豊かな響きを100%入れることができるんじゃないかと思っているんです。そういった意味での音楽的な表現、ホールの残響、間接音の再現のようなところで、よりこう面白い音源が楽しめるんじゃないかと期待しています。

ホール残響の聞こえ方の違い

入交 おっしゃる通りです。僕が空間音楽を始めた最初の動機は、豊かな残響と明瞭度が、2chではどうしても両立しないということでした。これを実現するにはどうしたらいいのかと考え、再生時にスピーカーの数を増やすという方法論になり、次にマイクをどういう風に配置するかという方法でやってきたわけです。

 コンサートホールの豊かな残響を録音するには、マイクは真ん中より後ろの方がいいとか、高い位置がいいとか、色々方法はあるんですけど、いずれも楽器の近くではないんです。でも、そうするとどうしても音の明瞭度がなくなるので、クリアーな音を録音するためには楽器の近くにもマイクを置く必要があります。

 今までは、これがメインマイクとスポットマイクみたいな役割だったんですけど、最近はフィールド臨場感とオブジェクト臨場感と呼んでいて、楽器そのものの臨場感とホールの臨場感を別々に捉えて、後で合成しましょうというやり方に変わってきています。今後はさらに、それをひとつのマイクで実現できないかというところに取り組んでいます。

 こうすることで、豊かな残響があるのに、なんでこんなにはっきり聞こえるのかな、みたいな音も作れるんです。それを聴いてもらうと、これは現実のホールではありえない、違う音なんだけども、でもいい音だよねっていう感想をいただいています。僕は、まさにそういう音を狙っているんです。

ーーリアルな場の臨場感と、ホームオーディオで楽しむための臨場感は、違ってくるということなのでしょうか?

入交 ホールの臨場感を再現するのではなく、表現するということです。ホールでは実際に楽器があり、それを目で見ているので、楽器に集中できるんです。人間は視覚で捉えたものに対してその音に集中できる力があるので、実際の音は残響が結構大きいんだけど、聴取者の印象の中では直接音が強く聴こえることになります。

麻倉 ビジュアル情報があるので、それに集中するわけですね。

入交 録音してしまうと視覚情報がなくなるので、その部分を演出して現場の印象に近いものに仕上げています。

投野 もうひとつ、これは今の入交さんのお話とも通ずる内容です。オーディオでは「原音再生」が重視されていますが、僕は「未知な音の体験」というものもあると思っているんです。

 原音再生とは、その人が過去に体験した音場をオーディオで再現することですけれど、一方で経験したことのない音を楽しもうという提案もあっていいのではないでしょうか。例えば先程の東京交響楽団にもあった、指揮者の位置で聞くオーケストラの音なんていうのは、実際の体験としては難しいわけです。それを個人の楽しみの中で聴けるようになると面白いですよね。

ヘッドホンでのイマーシブ体験について蘊蓄に富んだお話を繰り広げる、入交さん(左)と投野さん(右)

 原音再生というコンセプトも素晴らしいけれども、今まで体験することができなかった音楽の楽しみ方を提供できるという意味で、僕はイマーシブ・オーディオに期待しています。その意味で、イマーシブだからこそ体験できるコンテンツというものを、オーディオの技術者とミキシングエンジニアで協力して提供していけたらいいなと期待しています。

入交 “聴いたことがない音”っていう提案は僕も大賛成です。欧米では最近、「客席からステージへ」というムーブメントがあるそうです。マルチチャンネルを生かして、もっと楽器の近くに行きたいっていう要求が出てきて、客席じゃなくステージで、演奏者と同じ目線で聴きたいというニーズがあるようですよ。

 僕自身は以前からそういう音場を作ってきているので、その音を聴いて、なんでこんなに広がっているのという方もいらっしゃるんですが、これもしばらく聴くと慣れてしまいます。その音に慣れると、普通のステレオ音場が逆に狭く感じられるようです。このあたりをうまくコントロールするのがイマーシブ・オーディオの新しい作り方になっていくと思います。

麻倉 現場の追体験をするのが客席型の鑑賞スタイルだとすると、これまでできなかったことを体験するぞ、みたいな提案がステージ型の鑑賞スタイルで、これこそイマーシブ・オーディオの将来につながると思います。

 今われわれが聴いている従来の音楽は、そういう聴き方を想定して曲が書かれているわけじゃないですよね。ステージが前方にあって、手前にお客さんが居るという想定で曲を書いているわけです。それを再現するというやり方があってもいいし、さらに今後はイマーシブでの再現を意識した、新しい曲ができるような感じもしますよね。

入交 作曲家にイマーシブの音を聴いていただいて、可能性を感じてもらい、新たな3D空間上でなければ成立しないような作品を作ってもらいたいですね。

麻倉 楽譜に、この音は右の上から出てくるべきだ、なんて書いて欲しいですね(笑)。

投野 あと、音楽表現としての距離感っていうものは、実際のステージ上の物理的な距離感の再現とは別のものだと思うんです。そういった音楽表現の部分にイマーシブ・オーディオが生きてくるっていうことはないでしょうか?

入交 そこは曲の構成に関わる部分だと思うので、演奏者や演出家と話し合って進めるべきかもしれません。例えばものすごく遠くで楽器が鳴っているような表現っていうのは、音楽的にそれでいいのかどうかという判断が必要です。録音エンジニアとしては、どこに落としどころを求めるかも重要な判断のひとつになります。

 例えばオーケストでは弦楽器と木管楽器は後ろ側に並んでいます。それを録音上で弦楽器の前に持ってくると、音として違和感があるはずです。でもこれが絶対ダメかというと、そんなことはない。2chの世界でこれを前に持ってくると忌み嫌われたものですが、イマーシブ・オーディオではもしかしたら成立するかもしれません。そこはフレキシブルな頭を持って、実験して、皆さんが納得していけばいいことだと思います。

投野 クリエイターも、作品も演奏者もそういう方向を目指そうという作り方がされたらいいということですよね。

麻倉 レオポルド・ストコフスキーがもし生きていたら、彼はそれまでのオーケストラの配置を変えてしまった人ですから、絶対イマーシブ・オーディオを面白がって色々試したと思いますよ。

麻倉邸の5.1.6&ヘッドホンでイマーシブコンテンツを視聴

 今回の座談会は、麻倉さんの自宅オーディオルームで行っている。前編では、入交さんが収録したイマーシブオーディオコンテンツを、麻倉邸の5.1.6システムで視聴。その後ヘッドホン用の音源も確認いただいている。(Stereo Sound ONLINE)

●AVアンプ:マランツ AV10
●プリアンプ:オクターブ Jubilee Pre
●パワーアンプ:ザイカ 845、マランツ AMP10、他
●スピーカーシステム:JBL K2 S9500、リン CLASSIC UNIK、他
●プロジェクター:JVC DLA-Z1
●スクリーン:スチュワート SNOMATTE
●ヘッドホン:ファイナル D8000 Pro Edition

ーーではそろそろ、今日の視聴を通してヘッドホンでのイマーシブ再生について、どのように感じられたのか、感想をお願いします。

投野 リアルスピーカーのイマーシブ再生はスピーカーの数に依存するんですけど、バイノーラルのレンダラーはソフトウェアなので、仮想スピーカーをたくさん置くこともできるんです。リソース次第ではありますが、22.2chも不可能ではない。さらに、現存のバイノーラルレンダラーの演算では有限な数のスピーカーをターゲットに置いていますが、仮想スピーカー経由でのHRTF計算をせずに、コンテンツのオブジェクト位置からのHRTFで直接レンダリングすることも原理的には可能だと思います。むしろそれはヘッドホンでないとできないことかもしれません。こうったイマーシブへの展開もヘッドホンの目指すひとつのゴールとして、若いエンジニアに頑張って欲しいと思っているんです。

麻倉 リアルスピーカーを使ったイマーシブ再生では、空間とスピーカーを含めた機材にある程度の投資が必要です。しかしヘッドホンなら、まずいい音があって、その上にレンダラー、ソフトウェアの力でできることが大きいというのが、魅力ですね。

投野 そうですね。ヘッドホン自体の音響とバイノーラルレンダラーに人の聴覚探求も加わって、相互に最適化されていけば、将来的にはもっと没入感を楽しめる可能性がありますよね。コンテンツ制作の技術と、再生技術の連携の間でも、更に面白い音楽体験が作れると良いなと期待しています。

麻倉 ヘッドホンについては、市場が活発ということもあって、音質競争も進んでいます。2chの音もだんだん良くなっているので、そこに高品位なレンダラーが加わると、最強じゃないですかね。