近年オーディオ愛好家の間でも愛用者の多いヘッドホン。しかし1980年代後半までは、家庭でのオーディオ試聴はスピーカーを使った再生が中心で、ヘッドホンはその代替機、もしくは携帯音楽プレーヤーのためのアイテムという認識がほとんどだったという。そんな状況を変えた製品のひとつが、ソニー「MDR-R10」(1988〜2004年)だろう。価格はもちろん、素材や物作りのすべてでそれまでのヘッドホンとは次元の異なる取り組みが盛り込まれた“伝説の名機”だ。そんな製品の開発で中核を担ったのが、本連載の筆者・投野さんだ。今月から3回に渡って、MDR-R10の開発の裏側を語っていただく。(StereoSound ONLINE編集部)

§6 フラッグシップモデルの開発 その1

 琴の胴にするキリの木は、日を受けてすくすく育つときに、せせらぎや風の音を吸収して、それが琴の音として鳴るんだそうです。尺八の竹も同じです。私は本当だと思う。

 この清冽な感性に裏付けられた言葉。作家の水上 勉が1986年3月に芸術院恩賜賞を受賞した際に、東京新聞、および文芸春秋誌の記事に引用された一文です。この言葉は、その頃、MDR-CD900の開発を終えて音の世界の深さや面白さに惹かれていた私の心に深く刻まれていました。

 そんな1986年、当時ソニーでオーディオ事業本部長をされていた大曾根幸三さんが、不意にヘッドホンの職場に来て厳命していったのです。

「現行ヘッドホン最高機種に対して10倍の値段で売れる商品を作れ」

 その時のソニーヘッドホンの最上位機種はというと1985年発売したMDR-CD900で、標準価格は25,000円でしたが、この途方もない「10倍」の意図や実現性はなかなか理解できず、ヘッドホン開発メンバー一同、たいへんに困惑していたものです。

ソニー創業者のひとりである盛田昭夫さん(左)と、1986年当時のオーディオ事業本部長 大曾根幸三さん(右)。写真は ”ウォークマン®10周年”(1989年)に撮影

 当時のオーディオ市場はというと、売り場やオーディオ雑誌にいわゆる「オーディオコンポーネント」と呼ばれるジャンルはありましたが、ヘッドホンはその分類には入らず「オーディオアクセサリー」という扱いでした。つまり、スピーカーを鳴らせない場での代用品として認識されていたと思います。MDR-CD900発売時の値付けに際しても、営業からは「ヘッドホンの中心価格帯は3千円台だ」「3万円を超えるヘッドホンなんて売れない、市場がない」と言われていましたから、いかに「10倍」というのが無茶な話だったかはご理解いただけるかと思います。

 こうして、前例のないヘッドホンの開発プロジェクトが始動し、私が担当に指名されてしまいました。

 従来、「プレミアム」や「フラグシップ」と呼ばれるような上位機種の開発でしたら、過去機種をベースとして部品ごとに何割かの性能改善を加えることを以て「進化」として成立させることもありましたが、10倍となるととてもそんなアプローチでは目標を達成することはできません。職場内では、「ダイヤでも埋め込むしかないか」という冗談が出ることもあったほどです。

 しかし、私の中ではひとつのヒントとして「楽器」という発想がありました。例えば、バイオリンなどの弦楽器や木管楽器の筐体は木製です。縦笛などは、プラスチック製の最廉価品であれば500円くらいで買えるものから、最高級品は厳選された木材を使用していて響きのいいものであれば数十万円という製品まであり、その価値のレンジで1000倍もの幅が認められているわけです。

 一般的な家電製品であれば同一機能の製品価格ではせいぜい10倍程度の幅ですが、楽器の音のこだわりの世界をヘッドホンで実現できれば、今回のプロジェクトの目標達成も無理ではないのではないかと思ったのです。もちろん、先の水上勉の言葉への共感も私の中にあったと思います。

 そんなわけで、開発は「現行機種の筐体を天然木に置き換えて、音を聞いてみたい」という思いから始まったのです。それ以前のヘッドホンの筐体は私の知る限りすべてプラスチック製で、木のヘッドホンでどんな音がするのか、従来のプラスチック筐体のヘッドホンとの有意差が出せるのか、確たる自信はないままの取り組みでもありました。

 そこでまず、なるべく大型の筐体で、響きの違いが分かりやすいと思われる機種として、「武道館ウォークマン」に付属していた「DR-S100L」を選定し、ハウジングとドライバーを支えるバッフルの筐体を試作してみました。しかし、加工業者からは、薄肉、かつ曲面の多用されたプラスチック製の部品とまったく同じ形状で削り出すのは不可能といわれ、板材から継ぎ接ぎや曲げなどの技を多用してなんとか形にしてもらいました。

 これを組み込んで従来品との比較で試聴した結果は、やはり何か「プラスチック臭さのようなもの」が消えた音の素性としての好印象とともに、手に持った時の軽さや手触りの良さといった価値観が感じられて、木の使用には自信を深めたのです。

木質ハウジング試作品

ソニー「武道館ウォークマン」DD-100に付属のヘッドホン、DR-S100L

 木質ハウジングの音質優位性を予感できたことを受けて、次に取り組んだのは木質材料、プラスチックや金属を含め特徴的な各種材料の無垢材料からの削り出しでした。聴感上の音質の違いを確認しつつ、音響技術的な裏付けの検証も行っていきました。

 木質材料の選定は、もっとも柔らかい桐から、もっとも硬い木材とされる黒檀まで数種類を選びました。バイオリン筐体の表板に使われるスプルースも加えましたが、これは中くらいの硬さです。木質との比較材料として、樹脂材料で一般的なABSとそれよりはやや硬い傾向のアクリル、そして金属材料の中では比較的軽量なアルミニウムを選び、同じ形状で筐体の試作を進めました。筐体のデザインとしては、筐体の形が木工旋盤で加工しやすいようにMDR-CD900をベースに簡略化しました。

試作したハウジング各種。上段左からアクリル樹脂、ABS樹脂、アルミニウム。同じく中段は左から櫻、桧、桐で、下段は左からスプルース、黒檀、欅

 試作、音出しを進めていく中で実感したことは、やはり筐体材料ごとの特徴が音楽再生の音質に反映されるということでした。それは、試作筐体部品単独を固いバチなどで叩いた時に聞こえる材料固有の音色が、わずかながら響きとして乗ってくるという印象です。

 このように筐体の材質の音色が再生音に乗る点の音響計測的な裏付けをとる実験も行いました。具体的には、筐体の中心に加速度センサーを貼り付けて、ドライバーを励振した時の筐体の振動特性を計測し、更に音楽を再生した時のセンサー出力をヘッドホンで試聴するという方法です(図参照)。

 こうして得られた筐体の振動特性の計測結果としては、材料ごとに特徴的なカーブが得られ、また試聴としてもこの特性と相関を持って材料ごとの特徴が大きな差として聞こえてくるということが実感できました。

 こうして試聴結果と測定結果を照合してみて、材質ごとの振動特性が音色に直接的に影響を与えていることが分かりました。

 柔らかい木質では中音域に緩やかな共振があり、音声の低い方の母音にウエイトがある温かみのある音になりますが、硬い木質では高域の複数の共振が観測され、音声の高い方の母音と子音に響きが乗る傾向でした。一方プラスチックでも同様に中高域に響きが乗るのですが、共振を起こす帯域は狭いところに集中しており、木質の方がより周波数的に広帯域に分散した傾向が感じられました。これは、プラスチックが均質な素材であるのに対して、木質材料は密度や硬さの分散がある年輪構造を持つためではないかと思っています。アルミの場合、中音域に乗る響きはひじょうに希薄で、重低音域が厚く、また高域の擦過音に強調感が出る特徴が感じられました。

 こうして、試作の実感と客観的な裏付け含め総合的な音の印象として、欅の試作品が全帯域でバランスよく響きが乗りつつ、プラスチックに対してより心地よい響きを実現できる印象で、欅を採用する方向で検討を進めようと決めました。

 さてここまでの開発段階で木を使うことが確定的になってきて、そこを起点としておぼろげながら新機種開発全体の方向性のようなものが見えてきたと思います。それは「筐体に限らず天然素材のよさを徹底的に追及する」というこだわりです。

 そもそも、当時のヘッドホンは前述のように筐体がプラスチックでしたし、イヤパッドの表面はビニールやウレタンなどの合成皮革であり、ケーブルも軟質ビニールでした。しかし、私が木質のハウジングを試作・体験した中で実感したことは音のよさだけでなく、軽さのように実用的な機能性や、木の手触りで感じる温かみ、飽きのこない肌馴染みのよさ、木肌を持つ造形物としての圧倒的な存在感といった高い価値観でした。そんなわけで、音と装着性に関するすべての部品を天然素材で試作検討し、その魅力をヘッドホンの形で実感してみたいという欲望がわいてきたのです。

ヘッドホン:ソニーMDR-R10 ¥360,000(生産終了、発売当時の価格)

●使用ユニット:50mmドーム型バイオセルロース振動板●インピーダンス:40Ω●音圧感度:100dB/mW(1kHz)●定格入力:300mW●再生周波数:20Hz〜20kHz●質量:400g(コード含まず)

ソニーでは、MDR-R10開発当時の資料をきちんと保存している。次回以降で紹介させていただきます

 こうして、天然素材を盛り込んだ機種開発のコンセプトを固め、本格的な開発段階に移行するにあたり、プロジェクトとしては新機種の全体像を思い浮かべながら、検討対象とする部品材料や構造を夢想すると同時に、開発アプローチについても下記のような方針を決めていました。

●全部品の素材に例外を作らず網羅的に検討すること
●未検討な最先端技術による新素材にも挑戦すること
●価値の体感を重視しつつ技術的な裏付けも取ること
●各部素材の加工工程の調律では限界を見極めること

 このあと、プロジェクトとしては多くの試作検討を進めていくのですが、ここからはこの機種で盛り込んだ素材や技術について、1点ずつご説明していきたいと思います。

※中編に続く