§5 静寂について考える

 ヘッドホンには、ノイズキャンセル機能を付けたものが多く発売されています。周囲のうるさい環境下でも静かに音楽を楽しめる便利な機能ですが、そもそも「騒音」や「静寂」とは、どのようなものなのか、この場をお借りして読者の方々と一緒に考えてみたいと思います。

身の回りにある様々な音

 現代人は、昔より相当に多くの音に囲まれて生活していると思います。

 日常の環境では、交通機関や人の雑踏、商業施設でのBGMが聞こえてきますし、家の中でも家族の生活音だけでなく、空調や洗濯機の音もあります。音楽は選択的に聴くことができますが、周囲の人の再生している曲が耳障りになってしまうこともあります。さらに、公共の場でのアナウンスや携帯電話での通話音声やネットの音声情報も多数存在しています。

 この騒音のレベルを、音楽の聴取レベルとの比較(dBAの単位)で整理すると、下図のような感じです。人が聞き取れる最小の音が0dB、音として耐えられる最大の音が約120dBです。

身近な音の大きさ ※本イラストの作成にはMicrosoft designerを使用しました

 ちなみに、地球上で観測された最大の音圧は、というとなんと172dBという数字になります。それは、1883年にインドネシアのクラカタウ火山の大噴火によるもので、火山から160km離れたジャカルタでの計測値のため、噴火位置での音圧推定値は310dBといわれています。また、爆発の衝撃で放射された超低周波音は数時間にわたって地球を4周したというから、途方もない「音」であったことが分かります。

 日常で経験する音圧でいうと、航空機内での騒音が80dB、屋外が60dB、室内の生活騒音が40dB、寝室が20dBといったレベルです。一方で、音楽として聴いている大きな音が100dB、最弱音は40dB以下、コンサートホールの静寂音は20dB以下といった概算値です。したがって、航空機内の騒音を抑制し音楽の最弱の部分を聞き取れるようにするには、約40dBの騒音抑制が必要なことになります。

 ここで、ノイズキャンセルヘッドホンの動作を、フィードフォワード方式を例に解説したいと思います。

 外部騒音がヘッドホンに漏れこんでくる時には一定の遮音特性を持って耳に届きます。そこで、ハウジングの外に向いたマイクで拾った外部騒音を、あるフィルターを通してドライバーで再生、その際に漏れ込み音とドライバーの再生音が同じレベルの逆相になるように事前にフィルターを設定しておけば、漏れ込み音と逆相音は耳に届く手前の空間で打ち消しあって、騒音は消えることになるのです。

ヘッドホン、イヤホンのノイズキャンセリングの原理

 原理の話だけだと簡単そうに聞こえるかもしれませんが、実はこれは高度な技術が必要です。上記40dBの騒音抑制レベルを実現するためには、音圧でいうと騒音を1/100にしないとなりません。つまり逆相の音を誤差1%以内で、それも広い周波数帯域で生成しないとならないのです。これをより高いレベルで実現するために、ヘッドホン技術者は、多種多様なキャンセル方式や、デジタルフィルターの工夫、ヘッドホンの受動的な音響特性の改善などを含めて、何年もかけて進化させてきたのです。

 実は、ソニーでは航空機の客室サービス用のノイズキャンセルヘッドホンを提供していて、私は一度航空機会社の方とお話したことがあります。当時、キャビン内の騒音は新しい機体が登場するたびに少しずつ減って、静かになってゆく傾向にありました。そこで、私は「将来的に客室内が静かになって、ノイズキャンセルヘッドホンが不要な時代が来るのか?」という質問を投げたことがありましたが、答えは「そうはならないと思う」とのことで、その理由は次のようなものでした。

 「お客様が客室内で長時間過ごす時に隣席の方との距離はとても近い状態です。したがって、もし周囲がとても静かになったとすると、隣席の方のいびきや子供たちの声などの生活騒音が目立ってきて、客室は快適とはいえない状況になることが想定される」……と。

NTTインターコミュニケーション・センターの無響室

●撮影:木奥惠三 ●写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]

 西新宿の東京オペラシティタワー4階にある「NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)」には、写真のような無響室も常設されている、ここは、日本の電話事業100周年(1990年)の記念事業として1997年4月19日にオープンした、NTT東日本が運営する文化施設で、様々なイベント展示も行われる空間だ。

 その時私は、会社の無響室で体験したことを思い出しました。無響室は一般的には騒音レベルが10dB前後という静寂の世界です。ある時私は仕事の合間に極上のリラックスできる時間を過ごそうと思い、しばらく入室してみたのです。しかし、無響室に入った時にはとても静かになったのが分かるものの、しばらくすると自分の呼吸音や心音、耳鳴りなどが聞こえてきて、決して心静かではいられないと思ったのです。

 考えてみると、人の耳の感度は周囲の環境に応じて変動するものです。しばらくの間うるさい場所にいて、急に騒音が止み静かになると一瞬何も聞こえなくなります。そのあと1秒ほどでスーッと耳の感度が上がって、その場の小さな環境音が聞こえるようになるのです。そんな具合に、耳感度の有効レンジが変化するという現象を体感された経験はあるのではないでしょうか。人の耳の感度とはそのように適合性があるものなので、「自分自身」という騒音源があるかぎりは絶対的な静寂は経験できない、ということなのだと私は理解しています。

 逆に、「これが静寂というものかもしれない」と思える、興味深い経験をしたことがあります。ヘッドホン設計に従事し始めた80年代、私は静電型ヘッドホンで有名なSTAXさんの当時の試聴室を訪問しました。

投野さんの思い出に残っている「雑司ヶ谷旧宣教師館」

 東京都豊島区にある「雑司が谷旧宣教師館」は、1907年に建築された歴史的建造物で、東京都指定有形文化財(建造物)「旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)」として保存・活用されている貴重な空間だ。午前9時から午後4時30分まで見学可能で、休館日は毎週月曜日(祝日または休日の場合は開館し、翌平日に休館)と年末年始、臨時休館とのこと。興味のある方は以下のサイトでご確認いただきたい。

雑司が谷旧宣教師館の室内

 その場所は、雑司ヶ谷にある閑静な住宅街で、明治時代には宣教師が住まわれていた洋館ということでした。そんな試聴室で静電型スピーカーなどを体験したのですが、その時に私は「ああ、静かな部屋だな」と思ったのです。

 実はその試聴室、防音処理は施されてない木質内装の部屋で、ソニーの試聴室などよりも騒音レベル自体は高いものだと感じました。しかし、窓越しに庭の木々の葉が風で擦れ合うような音がかすかに聞こえてきて、それが音楽の背景音として感じられることで、むしろその静けさが本当に心地よいと思ったのです。

 録音された演奏会場の音以外にその部屋の音が混ざっているのですから、それは完全な意味の原音再生とは言えないのかもしれません。でも、心地よい環境音に包まれた試聴室にいて、まるでその場で音楽が奏でられているかのようなフィット感も、やはり素敵なものでした。

 物理的な騒音レベルの抑制とともに、「心安らぐ静寂」、そういったものを未来のオーディオで実現していけたら良いなと、私は願っています。