ピアニストの中山ナミ子さんがディレクターを務めるクラシックレーベル、スチュディオ・エクレールから、『天球の音楽 ミュージック・オブ・ザ・スフィアーイマーシブ・クラシック』が配信されている。2台のピアノを使った演奏が収められたミニアルバムで、全曲で360 Reality Audioのための収録が行われている(360 Reality Audio での配信はAmazon Musicのみ)。クラシックの配信で、しかも収録から360 Reality Audioを意識したというたいへん珍しい取り組みはどのようにして実現したのか。今回はソニー・ミュージックスタジオにうかがい、ディレクターの中山さんと360 Reality Audioのミックスを担当した鈴木浩二さんにお話をうかがった。(StereoSoundONLINE編集部)
『天球の音楽 ミュージック・オブ・ザ・スフィア—イマーシブ・クラシック』
1.向井航:ダルムシュタット・テクノ 2台ピアノのための
2.長谷川慶岳:メタモスフォシスI ~2台ピアノのための~
3.デュカス:魔法使いの弟子
ピアノ:後藤友香理、安並貴史(トラック3のみ)
麻倉 クラシック音楽で360 Reality Audioを使った楽曲が配信されているということで、その詳細についてお話をうかがいたいと、ソニー・ミュージックスタジオに馳せ参じました。そもそも、なぜクラシックで360 Reality Audioを使おうと考えたのでしょう?
中山 本日はお越しいただきありがとうございます。制作ディレクターの中山ナミ子です。今回の配信については、ある思いがきっかけでした。
私自身もピアニストとして活動しており、以前CDを作った時にちょっと苦労しました。というのも、レコーディング中のプレイバックですでに、思っているものと音が違ったんです。その場でエンジニアさんに“こんなはずじゃない”と食ってかかったほどです。奏者は自身の演奏がどのように聴こえるのかを想定して演奏しているのですが、エンジニアの手によってこうも違うものになってしまうのかと、結構なショックでした。
その時の経験から、音楽制作に積極的に関わりたいと思うようになって、スチュディオ・エクレールを立ち上げました。その第一弾として、ピアニストの桐榮哲也さんが演奏する『ブラームス:後期ピアノ作品集』を作りましたが、その時にたまたま鈴木さんが担当したCDを聴いて、ソニーさんに乗り込んだのです。
麻倉 なんと、凄い行動力ですね。
中山 それが2020年頃で、コロナ禍だったこともあって、鈴木さんもやりましょうと言ってくださったんです。その時に初めてディレクターとして参加することになり、ミックスのためにスタジオにお邪魔しました。
その際にも、ピアニストがその演奏で何を伝えたかったのかということと、CDとしての素晴らしい音というものが、かけ離れているように感じたんです。そこからより作品の解釈や演奏に基づく音作りをエンジニアさんと一緒に行っていき、『ブラームス:後期ピアノ作品集』は浦安ホールの響きを生かした、演奏者の表現したかったものが滲み出るような音に仕上がったと思っています。
麻倉 演奏者が伝えたかったことは、われわれ試聴者は想像するしかありません。そこに乖離があったというのは、まさに演奏したことがある人にしかわからない、重要な指摘です。
中山 続いて第二弾となる、後藤友香理さんの『ロダンをめぐる8つのイマージュ 長谷川慶岳作品集』を2022年に発売しました。静岡県立美術館ロダン館で収録したのですが、すごく豊かで独得な響きがある反面、建物からノイズが出たりして、編集には苦労しました。
そして今回の第三弾では、立体音響の360 Reality Audioを使っています。こういったフォーマットがあると鈴木さんに聞いたことがあったので、それをやってみたいと思っていたところ、後藤さんの依頼で実現しました。
麻倉 なるほど、鈴木さんは360 Reality Audioの経験も豊富ですから、ぴったりの人選でしたね。
中山 そうなんですが、その時にAmazon Musicなどで配信されている360 Reality Audioのクラシック作品を聴いて、“あらっ?” という感じもありました(笑)。
麻倉 “あらっ?”というのは、どういう意味ですか?
中山 音は広がって、ホールに居るような感じはするけれど、“立体音響” とまではいかないようにも思ったんです。私としては、もともと演奏者は音場の中にいるわけで、360 Reality Audioなら、聞き手もそれを体感できる可能性があると考えていたのですが……。
麻倉 そのために、“演奏の場” の再現ではなく、作品そのものを立体化しようと考えたのですね。ところで、なぜピアノ曲だったのでしょう?
中山 定位をはっきりさせるためには、ある種のリズム的要素、打楽器的要素が必要で、ピアノはそれに適しているのではないかと考えました。
麻倉 しかも今回は、オリジナルの楽曲を作ったそうですね。
中山 『天球の音楽~』に収録している3曲はいずれも2台のピアノのために書かれた作品で、1曲目の『ダルムシュタット・テクノ』は、このプロジェクトのために書き下ろしていただいた新曲です。ヘッドホンで聴くこと、立体音響を想定して作曲をしてもらいました。
現代クラシック作品ですが、タイトルの通り、テクノ的要素やクラブを満たすようなサウンド感で、譜面には、どういう立体感を出したいかというイメージも書いてあったんです。
麻倉 スコアに、どういう風に立体にしたいかが書かれていたんですか?
中山 “あちこちで生命が生まれる” とか、“高速で回転” といった表現でした。これについては、私自身も奏者なので、比較的容易に立体感演出の狙いが想像できました。それが正解だったかは作曲者に聴いてもらうまではわかりませんからドキドキだったんですが、一度目の試聴で合格点をもらうことができました。
麻倉 360 Reality Audioで音をどんな風に動かすか、中山さんが譜面から読み解いて、演奏に反映していたわけですね。
中山 さらに今回は、収録の方法も綿密に準備しました。というのも、360 Reality Audioのミックス作業では後処理で音を重ねていくのでメトロノーム(クリック)が要になります。しかし、クラシックをメトロノームに合わせて弾くと単調な演奏になりかねないんです。事前に奏者の演奏テンポを細かく計ってクリックを準備し、収録に挑みました。演奏の調子については最終的に編集でも調整しています。
また今回の3曲は同じホールで、しかも同じ奏者が弾いていますが、それぞれについて最適な質感や響きの大きさを、ミキシングの段階で鈴木さんと一緒に探っていきました。
麻倉 といっても、物理的には同じ音が出ているわけですよね?
中山 マイクは動かしてはいませんが、近くのマイクと遠い位置のマイクのミックスの具合によって、響きを持たせて空間を広くとるのか、反対に音像に近くデッドにするのかなどを、作品の求める表現に合わせて調整しています。
今回の配信では、360 Reality Audioと2chステレオふたつのフォーマットを採用していますが、聴こえ方が違うんです。Amazon Musicでは2種類聴き比べもできますので、基本的な方向性を押さえつつ、それぞれの違いを楽しめるように工夫しました。
麻倉 ところでこれらの3曲は性格が違いますよね。それぞれの音質や聴こえ方も差別化したんですか?
中山 360 Reality Audioでは距離感の再現が重要なので、音像をはっきりさせなきゃいけないという点に注意しました。また、定位の種類も変えています。先ほどお話に出た『ダルムシュタット・テクノ』は、現代人の感覚の360 Reality Audioだと思います。
2曲目の『メタモルフォシスI』は空間を意識した作風が特徴なので、もっと音場が広がるようなサウンドを意識しています。細かく動くというよりは、ファーストとセカンドの間で呼応するような配置になっています。
最後の『魔法使いの弟子』は、ミキシングで音を色々と動かしてみてもしっくりこなかったんです。そこで、聞き手が指揮者の場所にいて、ダイナミズムをワイドに感じるような定位とか配置の再現を目指しました。立体音響ですが、あまり音を後ろに回してはいません。
麻倉 1曲目と2曲目は現代作品なので比較的自由な立体感演出も可能だと思うんですが、3曲目はクラシックの定番です。なぜ今回『魔法使いの弟子』を選んだんですか?
中山 この曲はディズニーが初めて劇場でステレオ音声を採用した、映画館を立体音響にした金字塔的作品ですので、21世紀の立体音響技術で挑むことに意味があると思いました。また、皆さんがよく知っているということと、“ほうき”のテーマなど、一定のテンポとリズムが支配する作品なので、立体に組み立てやすいと考えました。
麻倉 鈴木さんにお聞きします。現在配信されている360 Reality Audioの中には、2ch用に録音されたマルチトラック素材を使って立体音響に仕上げたものも多いですが、今回はそうではないのですね。
鈴木 はい、360 Reality Audioのためにいちから収録を行いました。さらに、上下前後を意識して、低め、中段、上段にマイクを取り付けて音を拾っています。
麻倉 360 Reality Audioなどの立体音響を制作する場合は、会場の響きはできるだけ避け、直接音をしっかり押さえて、それをミキシングで動かす方がやりやすいですよね。
鈴木 その通りです。ただ今回はクラシックなので、ホール感は必要だろうと考えました。空間の響きを含めた音を録って、その空間ごと動かしています。オンマイクの音だけが動くのではなく、このフレーズはこっち側にホールが動く、といった手法を使いました。
中山 クラシック作品の録音では、奏者はホールも楽器として捉えています。会場によって音色が変わるし、作品によっても違う。それを試聴者に伝えたいという思いがありましたので、演奏空間も活かした作品にしたいと考えたのです。
麻倉 面白い発想ですね。そんな立体音響はこれまで体験したことがありません。
鈴木 録音担当としては、どのポジションで試聴しているのかも重要で、それによってマイクのセッティングも変わります。今回は360度の空間を地球と考えて、どういうサイズ感のサウンドにするか、どういう音楽を伝えたいのかといった具合に試行錯誤しながら進めていきました。
中山 立体表現について私の中にイメージがあっても、それをどうやって鈴木さんに伝えるかが難しかったですね。でも鈴木さんがそれを汲み取って、色々なパターンを録ってくださったので助かりました。
麻倉 現場では、楽曲ごとにマイクセッティングを変更したのですか?
鈴木 マイクの配置は同じですが、曲ごとにミキシング作業時に、左右に動かしたりといった調整を加えています。
中山 動かすパーツについては、別録りも行いました。2台のピアノの臨場感が欲しい場合はふたり
同時で弾いてもらいましたが、別録りパートは片手ずつといった具合に、後から重ねることを想定して録音方法をリストアップしていきました。
鈴木 今回は、あるパートだけ動かしたい、目立たせたいといった狙いがあったので、それなら別録りしなきゃ駄目ですね、ということになりました。
麻倉 そこまで細かく収録するのもたいへんだったでしょうが、音の材料が増えるほど、後からのミキシングも難しくなりますよね。
鈴木 3曲で21分ほどの楽曲で、収録は1日で終わりましたが、制作には4〜5ヵ月、ミックスだけでも約1ヵ月かかりました。そもそもこういう制作手法は初めてだし、音楽のキャンバスが360度に広がって、そこでどう音楽を表現するかは、まったく新しいテーマですから。
麻倉 ハードやフォーマットが変われば、音楽の演奏や演出も違ってきて当然です。
中山 奏者が聴いて欲しいと思っている通りの音をリスナーに届けるためには、演奏者自身も録音や立体音響についての知識や理解を深めて、それに合う演奏をしなくてはなりません。
鈴木 若い作曲家やクリエイター、あるいは演奏家が立体音響を経験していくことによって、これまで想像できなかったような作品が出てくるのでは、と期待しています。
麻倉 確かに、360 Reality Audioは従来の延長ではない、まったく新しい発想で作ってもらいたいですね。
鈴木 ではここから楽曲をお聴きいただきます。スピーカーは、フロントL/C/Rが上段、中段、下段の3層で、サラウンドL/Rは正面から見てそれぞれ110度の位置に上段と中段を配した13chシステムで、さらに低域を2台のサブウーファーで再生しています。
麻倉 録音時のフォーマットはどうなっているのでしょう?
鈴木 今回は48kHz/24ビットで収録しました。トラック数が多かったので、それでもかなりのデータ量になっています。今日はマスターのまま、非圧縮の音源をお聴きいただきます。
——『天球の音楽〜』を1曲目から順番に再生。
麻倉 凄いですね。これまでまったく聴いたことがない体験です。空間そのもの、全体を使うというところが、従来の立体音響のギミックとは全然違っていました。
1曲目のオリジナル作品は、初めから立体再現を考えて作ったというところが、ちゃんとメイクセンスできています。音が色々な場所に動くんですが、その動く空間の中に自分がいる。その体験はとても鮮烈でした。
特に『ダルムシュタット・テクノ』は、動きと音楽性、音色が明瞭に感じ取れます。重厚な印象で、音が出てくるところの存在感が凄くあって、しかも音の要素のひとつひとつが独立して配置されているのがわかりました。
2曲目の『メタモルフォシスI』では、アルペジオのような旋律がオスティナート(反復)していますが、それが安定感、安心感につながっていた。音が細かく動くのではなく、安定した音場があって、その上に反復音が配置されているので、聴いていて心地いいなぁと感じました。それが作品性につながっていますね。
音色はすごくきらびやかで、高域が伸びている。1曲目が重い感じでちょっと圧迫感もあったところに、こういった音色の2曲目が来るので、アルバムとしての色彩感が高くなります。『魔法使いの弟子』も面白かったけど、もう少し後方にも音が欲しかったですね(笑)。
中山 『魔法使いの弟子』は、ミックスの段階では後ろ側の配置も試していたんですが、そうすると音楽全体のエネルギーが薄く感じたんです。そこで、2人のアンサンブルは中心に持ってこようという方針に改めました。
麻倉 オリジナル曲は、ある意味どう攻めてもいい、自由な演出ができます。でも『魔法使いの弟子』は、作曲者の意図もあるでしょうし、時代性もありますから、どこまで攻めていいかはなかなか難しいですね。でも、『天球の音楽〜』の360 Reality Audioは、立体化するメリットが感じられる仕上がりだと思います。
鈴木 ありがとうございます。ステレオ用に収録した音源を動かすのはある意味では簡単ですけど、今回のように立体音響用に収録した素材を使って、空間ごと動かすというのは、色々な要素があるだけにかえって難しいですね。
麻倉 もうひとつ、今日の再生環境で重要なのは、音を体で感じられたことです。特にリアルスピーカーなら、低音もしっかり出せます。でも配信による360 Reality Audio再生ではヘッドホンを使うことになるので、そこも問題です。せっかくいい音楽、音場を持っているのに、ヘッドホン試聴ではその真髄を体験できないのは勿体ない。
鈴木 360 Reality Audioのミックスを何曲も手掛けてきましたが、ヘッドホンでいかに立体感を再現するかは、常に課題です。これまでの立体音響では、クラシックを客席で聴いているような、現場の再現が主流でした。それはひとつのアプローチとして有用ですが、今回はそうではなく、もっと試聴者に近づいて演奏の呼吸が聴こえる、ということを課題にしました。
中山 音楽に詳しくない友人に『天球の音楽〜』をヘッドホンで聴いてもらったんですが、頭の中、体の中に音が突き刺さって通り抜けていくような感覚があったと言ってくれました。
360 Reality Audioって、演奏を組み立て直す一種の制作コンテンツであるので、奏者からの信頼と、エンジニアの協力がないとできない領域だと思うんです。今回は私と鈴木さんにかなりの部分を任せてもらいましたが、これからは音響効果だけではない、作品の表現に基づいた新しい立体感の追求と、演奏家や作曲者の頭の中を覗いているようなリアルな演出も考えていきたいです。
麻倉 これまで360 Reality Audioのクラシック音楽で、“これは凄い”というものはあまり聴いたたことがありませんでした。その意味でも、今回の『天球の音楽〜』は貴重な音源です。音楽好きの方には、ぜひ本作の360 Reality Audioを体験していただきたいと思います。