音楽ストリーミングサービスの普及に伴い、いつでもどこでも気軽に音楽コンテンツに触れられるようになって久しい。読者諸氏の中にも、音楽を聞くためのアイテムとしてスマホやタブレット、あるいはApple TVやAmazon Fire TVなどのスマートデバイスを使っているという方も多いだろう。

 さらに再生される楽曲自体も変化しはじめている。CDの頃は44.1kHz/16ビットの非圧縮リニアPCMデジタル信号でメディアに記録されていたが、配信ではデータ量を抑えるという目的もあって、AACを始めとするデジタル圧縮方式が使われるケースがほとんどだ。

ドルビーアトモスの制作に対応したポニーキャニオンの渋谷スタジオ

 さらに2chステレオ音声以外にも空間オーディオと呼ばれる立体音響音楽が登場、ドルビーアトモスや360 Reality Audioといったマルチチャンネルフォーマットで作成された音楽を、ヘッドホンのバーチャネル再生や、AVアンプによるサラウンド再生で楽しむスタイルも普及し始めている。

 当然、それに合わせて音楽制作現場も変化しているという。特に空間オーディオ用のコンテンツを制作しようと思ったら、これまで以上に多くの音素材を使い、しかもそれらをドルビーアトモスなどのフォーマットに合わせてミックスする環境も求められる。つまり、“空間オーディオを作る場所” が必要になるということだ。

 最近は各レコード会社とも空間オーディオが制作できるスタジオの導入を始めており、ポニーキャニオンの渋谷スタジオもそのひとつ。昨年後半に開設され、音楽コンテンツ制作に対する新しい取り組みを始めているという。今回StereoSound ONLINEでは渋谷スタジオにお邪魔し、その詳細をうかがった。

ジェネレックのアクティブスピーカーとサブウーファーを使った9.2.4システムがセットされている

 ポニーキャニオン渋谷スタジオは、宇田川交番のほど近く、とあるビルの2Fにある。もともとはスタジオ関係の専門学校だったそうで、その後ポニーキャニオンがスタジオとして使うことになったという。そのひとつを今回ドルビーアトモス用のスタジオに改修したわけだ。

 「この部屋はもともと収録用のコントロールルームとして使っていたようです。今回渋谷スタジオでドルビーアトモスの制作を行うことになり、新しいスタジオを作ろうかという話もあったのですが、コスト的に厳しいこともあって、ここをドルビーアトモス仕様に改装しました」と株式会社エグジット音楽出版 取締役 制作技術部部長 ポニーキャニオンスタジオの能瀬秀二さんが説明してくれた。

 そこにはデジタルコンソールを中心にジェネレックのアクティブスピーカー「8341A」やサブウーファー「7360A」を使った9.2.4システムがセットされている。ミキシング作業はもちろん、制作したドルビーアトモス素材をここでモニター可能で、デコード用としてAVアンプのデノン「AVC-A110」もラックに収まっていた。

天井スピーカーもジェネレックのアクティブスピーカー「8341A」を使用

 「この部屋は基本的には、ポニーキャニオンの社内作品用ということになります。弊社では既にいくつかの作品を空間オーディオでリリースしています。それらはこのスタジオでミックスしたものではありませんが、制作現場には、せっかくこういう場所を作ったのだから、今後は空間オーディオのタイトルを増やしていきましょうと提案していきたいですね。

 ドルビーアトモスのスタジオは使用料も高く、コンテンツ制作にもそれなりのコストがかかってしまいます。そんな事情もあって、これまではなかなかドルビーアトモス作品を作ることができませんでしたが、そこを解消したいという思いもあって、スタジオを内製化することにしたわけです」(能瀬さん)

 とはいえ、ドルビーアトモスのミックス作業を行うには、スタジオ環境だけでなく、エンジニアの経験も必要だろう。その点はどう考えているのだろうか。

渋谷スタジオで制作したドルビーアトモス音源の検証用にデノンのAVアンプ「AVC-A110」も準備されている

 「ミキシングエンジニアの中には、ドルビーアトモスに興味はあっても、どういう風に音楽を表現すればいいのかわからないという方もいらっしゃいます。しかし弊社では飯倉にあるピーズスタジオでドルビーアトモス作品のミックスを行っており、経験のあるエンジニアもいます。今回はそこでのノウハウを教えてもらえるという強みがありました。実際にそういった経験をすることで、エンジニアの意識も変わってきたと思います」(能瀬さん)

 「ドルビーアトモスは、元々は映像ありきのサラウンドフォーマットでしたが、昨今は音楽だけでも包囲感を楽しみたいという方も増え、空間オーディオという形が求められています。若いエンジニアの中には自分から率先してドルビーアトモスの使い方を勉強しているスタッフも出てきていますので、これからドルビーアトモスのタイトルはもっと増えていくのではないでしょうか」(株式会社エグジット音楽出版 制作技術部 ポニーキャニオンスタジオ 光井里美さん)

 そんな若手エンジニアにドルビーアトモスの使い方をレクチャーしたのが株式会社クープ スタジオ本部ピーズスタジオ部 ポスプログループ マネージャー MAの村上智広さんだ。村上さんは、『モーツァルト!』『エリザベート』などのブルーレイに収録されたドルビーアトモス音声のアップミックスも手がけており、以前StereoSound ONLINEでもインタビューさせてもらったことがある。村上さんはドルビーアトモスでミックスする際の特徴をどのように捉えているのだろう。

ドルビーアトモスの音の移動を演出する際には、写真のジョイスティックやマウスを使用するとのこと

 「2chにまとめるとマスキングされてしまうような音も、ドルビーアトモスだとマスキングされずに聞こえる点がまず違いました。そういった違いをどう表現するかがポイントになるでしょう。最近はアーティストから空間オーディオで作品を作ってみたいというオファーも時々いただきます。作り手側のこだわりとして、ライブ会場の臨場感を音で再現したいという思いや、2chでは表現できない空間表現などにはドルビーアトモスが適しているのかなと考えています」(村上さん)

 ちなみに渋谷スタジオでのドルビーアトモス制作環境、ハードウェアのスペックについても聞いてみた。

 「このスタジオではドルビーアトモスでの、96kHz/24ビットでのミックスにも対応していますが、実際には納品先が48kHz/24ビットで運用しているところが多いです。96kHz/24ビットでは、扱えるチャンネルは半分になります。

渋谷スタジオの建物内には、ドルビーアトモス用の他に2ch用のスタジオも準備される

 スタジオのモニター環境はご覧の通り9.2.4システムです。ピーズスタジオでは当初は7.2.4環境だったのですが、ワイドスピーカーがあれば映画のプリミックスを行うことができますし、何より音のつながりがいいということで、9.2.4に改修しました。その流れもあって、この部屋も9.2.4で揃えています。

 またAVアンプにAVC-A110を使っていますが、このアンプは9.2.4出力を持っていますので、そこをカバーできるようにしたという狙いもありました。ドルビーアトモス・ホームのミックス現場として、市場にある製品のスペックはカバーしたいですから」(村上さん)

 なお空間オーディオの楽曲の中には、意図的にヴォーカルをあちこちに動かすような作品もある。そのあたりの演出は誰が決めているのだろうか?

 「アーティストや制作スタッフのビジョン次第です。例えばライブ会場の臨場感を再現したい場合は現場のイメージを重視するでしょうし、逆にサラウンド感を思い切り遊ばせたい場合は、リアルではあり得ない音の配置を行うこともあるでしょう。これから作品が増えていくと、色々な意見がでてくるのではないかと考えています」(村上さん)

取材に協力いただいた方々。写真左から株式会社クープ ピーズスタジオ部/ネットメディア部/第2技術部/営業部テクニカル営業グループ 北澤直之さん、同 スタジオ本部ピーズスタジオ部 ポスプログループ マネージャー MA 村上智広さん、株式会社エグジット音楽出版 制作技術部 ポニーキャニオンスタジオ 光井里美さん、同 取締役 制作技術部部長 ポニーキャニオンスタジオ 能瀬秀二さん

 渋谷のドルビーアトモススタジオは、昨年初夏に完成し、実際に稼働し始めたのは10月頃だったそうだ。先ほどの光井さんのお話にあった通り、村上さん達の協力もあって若手エンジニアのスキルも上がってきているという。

 「実はこの部屋もドルビーアトモス専用というわけではなく、2chのミックスにも使っています。そうしないと稼働率が落ちてしまうのです。とはいえ以前に比べるとドルビーアトモスの出口、再生方法は増えていますので、音楽だけでもドルビーアトモスの需要は伸びていくと思います」(能瀬さん)という言葉通り、空間オーディオは音楽鑑賞のスタイルとしてより身近な存在になっていくのは間違いない。ポニーキャニオン渋谷スタジオから送り出される楽曲に期待したい。(取材・文:泉 哲也)

※後編に続く