プロジェクターにとってスクリーンは必要不可欠な存在である。ところがホームシアターファンの入門層にはその重要性が理解できず、実にもったいない画質で鑑賞しているケースも多い。とりわけ最近注目を集める超短焦点型プロジェクターのユーザーにそうした傾向があるのはとても残念なことだ。

 白い壁や白い布でも映像は映し出せるが、それではプロジェクターの潜在能力は引き出せない。スクリーンはプロジェクターが持つ自身の姿を映し出す鏡なのである。鏡なくしてお化粧は出来ないだろうし、服装のコーディネイションに全身が映し出せる鏡はマストアイテムであるのと同じで、プロジェクターの持つポテンシャルをフルに発揮できるかどうかはスクリーンにかかっている。

 キクチ科学研究所(以下キクチ)はスクリーンの開発に長きに渡る時間を費やしてきた国内屈指のメーカーである。1958年に会社が設立され、その翌年、現在の代表取締役、菊地太郎と菊地東次の父、菊地友雄がスクリーン上で色温度の変換を可能にした「ブルーベースビーズスクリーン」の開発に成功し、名目ともにメーカーとしての第一歩を印している。そしてこの製品は東京都の発明奨励賞を受賞するという快挙も成し遂げた。

 キクチは創業以来マット系からビーズ系まで数多くの製品を手掛けているが、1970年に開催された大阪万博や、1985年のつくば万博で政府テーマ館や歴史館などのパビリオンで採用された輝かしい実績は彼らの大きな誇りになっている。またキクチは視聴覚教室など学校教育の現場にも製品を供給しているので、ホームシアターファンでなくとも、彼らの作ったスクリーンの映像を目にしている人は多いはずだ。

 

Screen
KIKUCHI
Sorbety Glass

¥294,800(16:9、100インチ。Stylist ES・電動巻き上げ式ケース入り)税込
●問合せ先:(株)キクチ科学研究所 TEL.03(3952)5131

 

人の縁とは誠に不思議なもの。加嶋のスクリーン人生の始まりとは

 筆者がキクチのスクリーンを意識するようになったのは1980年代に入り、ホームシアターが本格的に立ち上がってからだ。本誌が唱えてきた「大画面」、「高画質」、「高音質」、「サラウンド」という4大規範とともに、プロジェクターのユーザーが増えたことで、スクリーンは表舞台に登場してきたが、それでもわかりづらいアイテムだった。何をどう選べばベストなのか、なかなか悩ましい問題だったのである。

 製造技術本部技術部技術課主任の加嶋幸平はキクチに入社して10年目になる次世代を担う人材の一人である。今から10年前と言えばBSも地上波もハイビジョンによるデジタル放送が始まっていたし、ブルーレイソフトでは3Dタイトルが話題になっていた頃だ。

 

 加嶋は音楽学校に勤めていたという実に興味深い経歴を持つ。その彼が専門外の分野に転職する動機は何だったのか……。

 まず、そのことを問うと、「音楽活動に映像はつきものです。演奏だけでなくPV(プロモーションビデオ)の収録や編集、それから楽曲や音響制作にも携わってきました」。なるほど彼の中では演奏も制作もクリエイティブな仕事であるべきという思いがあるのだろう。そしてスクリーンに映像を映し出すことも同様にクリエイティブな仕事なのだと語る。

 そんな彼の人生を決定づけたのは、「ソルベティグラス」の開発者である現在の上司との出会いだ。「面接の時、本当にこの人の下で働きたいと思ったんです」。その場でどのようなやり取りがあったのかまでは尋ねなかったが、そんなことが言えるのも加嶋にとっては幸運な出来事だったに違いない。仮に他の人が面接していたら、果たして彼は転職していたかどうか……。

 人の縁とは誠に不思議なものだが、こうして加嶋のスクリーン人生が始まったのである。

 

Kohei Kashima
1978年大分県生まれ。ドラムス担当でバンド活動を行なった後、教務員などの経験を経て、2013年にキクチ科学研究所に入社。スクリーン開発を担当するセクションに配属、様々な製品の誕生に関わる。音楽演奏と同様にスクリーン開発を「クリエィティブな行為」であるというスタンスで貫き、日々の業務に取り組む。現在、同社で製造技術本部技術部技術課主任として活躍中だ。

 

取材はキクチ科学研究所の本社視聴ルームで実施した。スクリーン幕面のサンプルを手に、ソルベティグラススクリーンの開発の苦労、こだわりを開陳していただいた

 

 入社と同時に「ドレスティ」の設計に携わり、そこで彼はスクリーンゲインの測定を担当すると同時に光学の基礎をみっちりと叩きこまれたのである。自身の努力もあったと思うが、「ソルベティグラス」の開発が始まった時、すでに加嶋には相当の裁量が与えられていた。それでも彼はこう話す「上司と一緒に働いているだけで楽しいんです」。

 

キクチのホームシアター用スクリーンは様々なタイプで展開されているが、特に「Stylist(スタイリスト)」と銘打った製品群に多くの主力製品をラインナップしている。写真は立ち上げ式の「Stylist Limited」スクリーン。ワンタッチ立ち上げ式のケースに、80インチから100インチまでのスクリーンを収納可能だ

こちらは電動スクリーンタイプの「Stylist ES」のホワイトケースタイプ。静音モーターを採用し、動作音を徹底的に抑えたこだわりの仕様となっている

ケース取り付け部を背面から撮影した。Stylistの巻き上げタイプのケースは、壁面に2つのネジで固定したL字型ブラケットを2箇所使い、ケース背面のスライドレールと固定する仕組み。取り付け位置の自由度が高く、最適なポジションでの設置が可能だ

 

 

作っては試写で確認。アナログ的手法で開発された

 最初に行なったのが素材の選定である。映画製作に例えれば、彼の上司はプロデューサーで、加嶋はディレクターということになるだろうか。「ソルベティグラス」はビーズスクリーンだが、元々ガラスビーズはスクリーン用として作られたものではない。主な用途は道路標識用で、光が当たった時の反射を助けるために使用される。

 このスクリーン開発では、当初は平均粒径30マイクロメートル(µm)のもので試作をスタートしたがゲインが不足するので、最終的には前作の150PROGスクリーンとほぼ同等の平均粒径75µmのガラスビーズに決定したという。もっとも製造段階でのガラスビーズは粒径のばらつきが結構あるそうだが、公差に入らないサイズのビーズは徹底的に除外して納品してもらっているとのことだ。筆者はビーズスクリーンはビーズを塗布するだけの簡単なものと思っていたが、とんでもない誤解だった。

 「ソルベティグラス」のベースとなるスクリーン生地は「ホワイトマットアドバンス」だが、ここにビーズを塗布して試作を重ねた。「ある程度は結果が予測できるまでに鍛えられてきたので、およそのスペック、画質は読めるんですが……」と加嶋は語るが、それでも実際に作ってみないことにはスクリーンの正しい性格はわからないという。「ソルベティグラス」のテーマはゲインと視野角。ところがビーズタイプだと視野角がなかなか広くならないばかりか、設計が最適化されていないと暗くなる。塗布しては試写を行ない確認する、まさにトライ・アンド・エラー。なんともアナログ的な方法で仕上げていったのである。

 「ビーズ粒径を小さくすると視野角は広がるんですが、それではこのスクリーンに課せられたテーマをクリアーできません」。粒径の均質化とむらのない塗布面を作り上げることで、ビーズらしい輝きが生まれ映像の立体感や奥行が出る。半面ピーク輝度が上がり過ぎると暗部の再現性がままならない。黒浮きを抑えるために特殊な拡散材を加えるらしいが、ここはノウハウなので詳しくは教えてもらえなかった。

 こうして「ソルベティグラス」は、4KのHDRコンテンツに最適なゲイン1.45のスクリーンに仕上がった。「皆さんビーズのスクリーンというとギラギラした描写になるというイメージを持たれるんですが、観ていただけばお分かりの通り、そんな作りにはなっていません」。なるほど今の時代に合わせしっくりとした持ち味が醸し出せるスクリーンを目指したことが良くわかる。ビーズスクリーンは全暗環境でも使えるが、リビング環境で本来の持ち味が発揮される点もホームシアターファンには歓迎されるポイントである。

 

ホワイトマットアドバンス(左)とソルベティグラス(右)の生地サンプル。幕面の色調が異なるのがおわかりになるだろうか

両者の幕面をアップで撮影してみた。ホワイトマットアドバンス(左)に、ガラスビーズが含まれた特殊塗料を全体4回も吹き付けて仕上げたられたのがソルベティグラス(右)だ。強い照明をあてるとビーズが反射し、キラキラ光るのが確認できる

 

 

HDRに最適な鮮明な画質が魅力。新発想のスクリーンも開発中だ

 スクリーンはオーディオビジュアルの世界にあって、地味な分野には違いないが、それだけに地道な努力を重ねない限り満足のゆくものにはならない。

 以前「ソルベティグラス」で横浜と東京の夜景を8Kで空撮したビコムのUHDブルーレイ『8K空撮夜景』を視聴したことがある。東京タワーを俯瞰して捉えたシーンでのライトアップの照り返しの輝きや遠くに広がる夜景の中で点滅する赤や白のライトの鮮やかさにこのスクリーンならではの表現力を体感した。

 「HDR時代のスクリーンと言えども、ピークを伸ばし過ぎないように仕上げることが大切だ」と加嶋は話す。ピーク輝度にばかり目を向けているとどうしても全体のバランスが崩れてしまうというのだ。また人の目のR/G/Bの感度を分析することで、より高精細なスクリーンを作ることが次の目標だということも明かしてくれた。「新しい映像文化に合わせてもっと感動してもらえるスクリーンに挑戦していきたいんです」。キクチの伝統を上司から受け継いだ彼が「ソルベティグラス」の次に構想を練るスクリーンには一体どんな絵が浮かび上がるのか、大いなる楽しみがまた増えた。

(文中敬称略)

 

Stylistスクリーンのラインナップを整理してみた。3方式(巻き上げ式/床置き式/パネル式)とサイズ、生地(幕面)の3要素からの選択がラインナップの基本で、巻き上げ式のホワイトマットアドバンススクリーンではケースカラーが4色(白/黒/赤/青)、シャンティホワイト/ソルベティグラスは白と黒から選べる。幕面サイズは基本ラインナップのほかに、カスタマイズにも対応。上部黒マスクの延長など様々な希望にもできる限り対応してくれるとのことだ

 

 

本記事の掲載は『HiVi 2023年冬号』