老舗ピアノ工房、日本ピアノサービスの「BIJIN CLASSICAL (ビジン・クラシカル)」レーベルからリリースされた、ロシアの名手、イリーナ・メジューエワ『ノスタルジア』。ショパンから平野一郎まで、ユーラシア大陸を横断する民俗色の濃い小品集だ。

 この注目作は、いかに録音されたか。私は昨年2021年11月9日~10日の相模湖交流センターでの192kHz+32Bitの録音セッションをつぶさに取材し、そして今回、完成したコンテンツ再生してみて、なるほど、これほどの熱い思いとこだわりで制作されたのだから、この高音質と音楽性は当然の成果と、深く認識したのであった。本稿はその録音現場からのリポートと、インプレッションだ。

 現場で、メジューエワさんにアルバムの制作意図を訊いた。「キーワードは“民俗的な音楽”です。東欧、ロシア、日本の作品を通じて郷愁、望郷、追憶といった、懐かしさや憧れの、儚くも美しい音世界を探求します。背景にあるのは“祭り”と“踊り”です。ショパンのマズルカやバルトークのルーマニア民俗舞曲が民俗的な踊りであることはいうまでもありませんが、“祭り”との関連で、“異界”や“死”もテーマに含まれています」。

麻倉さんのインタビューに応えるメジューエワさん

 『ノスタルジア』というタイトルが理解のポイントだ。郷愁には地理的な、そして時間的なそれがある。地理的にはショパンのポーランドを出発し、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ロシアとユーラシアを巡り、日本の丹後宮津(平野一郎)に至る、時間的には19世紀~20世紀の東欧から、20世紀のロシアを経て今の日本に、進む。なかでも、メジューエワさんは、平野一郎の「二つの海景(♀:祈りの浜/♂:怒れる海民の夜)」に惚れ込んだ。

 「平野さんの作品は、誰にも似ていない、宇宙的な美しさを持つ、特別な世界です。ハーモニーの形が、まったく違うのです。彼の出身地である丹後宮津の土壌、伝説、風景がつくりだした日本的な響きを基本にしながら、独自の世界を展開しています。これまで彼の作品には注目していましたが、なかなか、録音するチャンスがありませんでした。でも、今回のレコーディング、私の日本デビュー25周年の記念アルバムには、ぜひ入れよう、と。そこで平野さんの作品をアルバムの最後に配置したのです。『二つの海景』を逆に出発点として、それを最大限に活かす形で、『ノスタルジア』のコンセプトを決め、選曲していきました。なお、平野さんには2023年を目標にピアノソナタを委嘱させていただきました。完成がもの凄く楽しみです」。

 京都を拠点に日本の風土、伝承から発想した作曲を追求する平野一郎氏は、私のインタビューに答え、こう言った。

左が平野一郎氏

 「『二つの海景』のうちの「祈りの浜」は、ピアニスト・田中綾さんがハンガリーのコダーイ・インスティートを卒業する際に、修了リサイタルのために書いた曲です。「怒れる海民の夜」は神戸のピアニスト・堤聡子さんの委嘱で作曲したものです。私はドミソによらない、かといって無調でもなく伝統的な旋法そのものでもない独自の響きと調べを絶えず追求してきました。世界にはハーモニーと言えるものが実は無限にあります。ドミソの三和音を協和だとする西洋的な長調と短調は、かつての教会旋法が持っていた多様な調べの豊かさの犠牲の上に成り立っています。

 西洋音楽の和声は自然倍音に由来すると称しつつも、平均律が象徴するように、置き換え可能な合理性を優先した極めてシステマティックなものなのですが、私はそれとの対極で、例えば雅楽の笙の響きの中に片鱗が残っていると考えられる、もう一つの合理性と協和性を持ったいわば“失われた東洋のハーモニーの復活”を目指しています。普遍性に対する置き換え不可能な真正性を対置しつつ、音楽の歴史の中で忘れられたものに価値を見出し、それを徹底的に研究するなかから、作品を生み出しています」。

 ビジンレーベルが制作するメジューエワ作品では、ピアノがポイントだ。毎回、ニューヨーク・スタインウェイを使うが、今回は1922年製のスタインウェイだ。そもそもビジンレーベルは、ニューヨーク・スタインウェイを奉じる日本ピアノサービスのレーベル。磻田聖二社長が言う。

日本ピアノサービスの磻田聖二氏(左)

 「あらゆる年代のスタインウェイに触れるなかで、特に古き良き時代に作られたスタインウェイの生命力溢れるサウンドの虜となっていきました。以来、日本ピアノサービスでは、自分たちの目で選んだ古き良き時代の名品の音を、自分たちの手で蘇らせ、弦楽器の名品と同様に、それらを次の世代へと受け渡していくことを最大の喜びにしいます」。

 “ビジン(BIJIN)”とは、ロシア極東の少数民族の話すウルチャ語で「なにごとも、あるがままに」を意味する言葉だという。この意味の通り、極力、人工調を排し、ワンポイント録音によるナチュラルな音響を尊ぶ。

 「私たちは、優れたピアニストの繊細な表現がダイレクトにリスナーに届くサウンドづくりを理想とします。自然なホールの響きの中で、基本的に2本のマイクでシンプルに録音。極力加工せず、タッチによって敏感に反応する音のニュアンスをできる限り残して、あるがままをパッケージします」(磻田社長)という。

 今回の使用楽器は1922年製ニューヨーク・スタインウェイ。神戸から遠路、相模湖まで運んできた。磻田社長に説明してもらった。

収録に使用された1922年製のニューヨーク・スタインウェイ

 「1920年前後は、スタインウェイが私たちにとって最も関心のあるピアノを生み出していた年代です。当時のニューヨーク製の鉄骨は、粘りのある太くリッチなサウンドを響かせるのです。ダイナミックレンジがひじょうに広大。タッチの強弱への反応は驚くほど。どこまでも弱く、どこまでも強く奏でられるのです。それにはアメリカのホールが貧弱であったという当時の事情があります。時には屋外で弾かれることもあったので、遠くまで音が聞こえるように音量が大きく、力強く音が伸びることが要求されました。

 一方、ハンブルグのスタインウェイに限らずヨーロッパのビアノは、教会やコンサートホールなど、もともとアコースティックが整っている環境で演奏されるため、アメリカのピアノに比して音量やダイナミックレンジは小さいのです。今回は1922年のモデルです。群を抜くダイナミクスや輝かしい倍音は、ヴィンテージのニューヨーク・スタインウェイならではの風格を備えながら、欧風の気品も漂わせる独特な魅力があります。メジューエワさんに弾いていただくための調律は、フェルトの扱いがポイントです。同じ音を叩き続けると、フェルトが硬く、ソリッドになってしまうので、それをほぐすのです」

調律中の磻田氏

 メジューエワさんは1922年モデルについて、こう語った。

 「今回は1922年製のピアノを選びました。普段の録音でよく使う1925年製(CD135)は、あまりに低音の伸びが強すぎて、平野さんの『二つの海景』でスタッカートをうまく表現できなかったので、オールマイティでバランスのよい、1922年モデルにしました。弾くたびに微妙な変化があって、今日はどんな風に鳴ってくれるのか、毎回とても楽しみなピアノです。楽器と対話ができるのが最大の喜びです。ときにはピアノを弾いているというより、ピアノに弾かされている感じもします。この曲はこう弾け、とピアノに教えられることも多いです。ちょうど100歳の大おじいちゃんですから、マッサージするような感じで(笑)、大事に弾きます」。

 ニューヨーク・スタインウェイの音は凄い。私も現場で少し触らせてもらったが、実にしなやかで、軽いタッチなのに、ダイナミックレンジがもの凄く広大なのだ。小さな音はどこまでも弱く、大きな音はどこまでも勁い。しかもこのグラテーションの間に、万華の色が発せられるのである。まさに腕と指の喜びだ。

収録の休憩中に、ニューヨーク・スタインウェイを弾く麻倉氏

周波数バランスと音場の響きに留意して収録

 録音はいかに行なわれたか。録音エンジニアは日本コロムビア出身の北見弦―氏。コロンビア時代は伝説のインバル/フランクフルト放送交響楽団のマーラー全集の制作に携わった名エンジニアだ。メジューエワ作品では、過去いくつかのアルバム(若林工房)で録音を担当しているが、ビジン・クラシカルレーベルでは初登場。録音機材はPro Tools、フォーマットは192kHz/32Bit-Float、マイクはDPAの無指向性×2本のみによるワンポイント・ステレオ録音だ。

録音エンジニア 北見弦―氏(左)

 「私の目指す音を述べますと、ひとつは均整のとれた周波数バランスです。ある帯域がよいというのではなく、低域から高域までバランスよく収録することです。もうひとつが、音場の響き。ホールの空気感が出ているかが、大切です。ピアノでは特に直接音と間接音(ホールトーン)のバランスです。むしろ響きを味方にして録るという感覚です。そのバランスを確保するために、ワンポイント・ステレオマイクで録ります。もっとも自然で無理のない音が録れます」(北見氏)。

 ワンポイント・ステレオマイクでは、その高さ、間隔が重要だ。リハーサルの当初は55センチ間隔でセットしていた。でもこの間隔では、ピアノ音像が大きすぎ響きも過剰だった。「モノラルみたい」と北見氏が言った。そこで50センチまで縮めたら、今度は音像は小さくなったが、音自体の魅力が減った。そこで52.5センチまで戻し、結局、51センチに決めた。「高さも3メートルを中心に、さまざまにトライし結局、そこから少し下げました。もの凄くシビアなんです」(北見氏)。この段階で粒立ちが細やかに、音の伸びがクリヤーになった。

何度もマイクの間隔や高さを変えながら音声をチェックし、ベストとなる幅51cmにたどり着いた

 ホール自体の響きの量も当初は、予想以上に多かった。そこで、ホール館長の松田善彦氏が提案。「ホールの四隅に低音が溜まっているのでしょう。それを減らしましょう」。ホールの音について熟知している松田氏ならではの申し出だ。そこで、吸音性の椅子をいくつか、ステージ上の隅に置いてみたところ、見事に余計な低音の停滞感が解消され、透明度が高くなった。北見氏の横で話を聞いていたメジューエワさんは「私は客席で聴かれているお客様が感じている響きを想像して弾いています」。

ホールの響きを抑えるためにステージ隅に椅子を配置したところ

音像イメージが緻密で、音楽的鮮鋭感に満ちたサウンド。響きも豊潤に感じられる

 では『ノスタルジア』のインプレッションだ。まずは192kHz/24bit音源をPCから、メリディアンのD/Aコンバーター「ULTRA DAC」で再生した。プリアンプはオクターブの「Jubilee preamp」、メインアンプは管球式のZAIKA「845PP」、スピーカーはJBL「K2S9500」だ。

 まず現場で聴いていた音を報告すると、相模湖交流センターは、たいへん響きが上質だ。ニューヨーク・スタインウェイから発せられた音の細かい粒子が、ホールのあちこちを飛翔し、長い時間滞空する。ペダルを使わずとも、響きは豊潤だ。

 パッケージには、まさにそこで感じた音だ。その通りの音が収録されている。音楽エネルギーが大胆に発露、音が疾走する。メジューエワの圧倒的な音楽的ダイナミックレンジと微細なタッチへ即座に応えるニューヨーク・スタインウェイのレスポンスも、たいへん見事だ。音像イメージが緻密で、ピアノの打鍵が快速。音の立ち上がり/下がりが俊敏だ。小気味良い音楽的鮮鋭感に感動だ。具体的に述べよう。

●ショパン:マズルカ 嬰ハ短調 Op.50-3
 ソノリティの響きがたいへん美しい。冒頭、タイで結ばれた2つの四分音符で、いかにニューヨーク・スタインウェイから発する、豊麗な響きが会場に濃密に拡散し、さらにピアノの上方、3メートルのワンポイント・ステレオマイクに入っていったかの、音場飛翔の軌跡のドキュメンタリーが見えるようだ。微小信号の再現性が高く、音楽が生体的に呼吸しているかのような生々しさ。

 時間軸がひじょうに細かく、鍵盤のタッチ感から、アクションの動作、ハンマーの叩き、離反……というメカニカルな発音まで、容易に想像できる。ピアノはメジューエワの指先の感触に敏感に反応し、豊かな感情を音で返す。1分からの強音も、衝撃的なフォルテを聴かせてくれる。ヴァースの嬰ハ短調 と中間の和やかなロ長調の対比も美しい。メジューエワとニューヨーク・スタインウェイは、そんな長短の感情変化を見事に演じている。最後の終止形のドミナント和音も衝撃的だ。

●ドヴォルザーク:ユーモレスク 変ト長調 Op.101-7
 人口に膾炙したポピュラー名曲だが、メジューエワの手に掛かると甘い感傷性を排した、躍動的な舞曲になる。軽々と奏されるペンタトーンが美しい。9小節のオクターブへの跳躍も、溜めずにスマートに進行する。中間部に同音転調する変ホ短調でも、大袈裟な表情でなく、まさしく舞曲のような軽快な運動性が心地好い。印象的な同形旋律が、次第に装飾を加え、華やぎを増していくクレッシェンドの表情が濃い。豊かなソノリティと、グラテーション豊かな繊細なタッチを堪能。

●平野一郎:二つの海景
 「♀:祈りの浜」は単音と、長いサステイン、不思議な音階が表れ、さざ波のようなフレーズが海に誘う。「♂:怒れる海民の夜」はピアノは強靱な打楽器だと識れる。冒頭の強烈な低弦の叩きは、グランカッサの咆吼か、海の荒神の怒りか。スピーカーの低音のスケールとレスポンスが測れる音源になりそうだ。中間部には鋭い高音も加わり、全帯域で凄まじい嵐が吹き荒れる。フィナーレに向けて、勢いはいよいよ強くなり、ピアノもスピーカーも壊れんばかりの凶暴なグリッサンドと和音の叩きで突然終わる。でも、どんなに衝撃的でも、音に気品と風格があるのが、ニューヨーク・スタインウェイの美質であることも同時に分かった。システムのオーディオ性能を試す、恐ろしいチェック音源になりそうだ。

 メジューエワの『ノスタルジア』は、オーディオ的、そして音楽的に、CDパッケージ、配信/ダウンロード、いずれもがマスト音源だ。

イリーナ・メジューエワ CD『ノスタルジア』

¥2,970(税込)
発売元:日本ピアノサービス株式会社

【収録曲】
ショパン:マズルカ 嬰ハ短調 作品 50-3 / マズルカ 嬰へ短調 作品 59-3
ドヴォルザーク:ユーモレスク 変ホ短調 作品 101-1 / ユーモレスク 変ト長調 作品 101-7
バルトーク:ルーマニア民俗舞曲 Sz.56
スクリャービン:二つの小品 作品 57(欲望 / 舞い踊る愛撫)
メトネル:おとぎ話 ホ短調 作品 34-2 / おとぎ話 イ短調 作品 51-2
ヤナーチェク:ふくろうは飛び去らなかった!(草陰の小径 第 1 集より 第 10 曲)
平野一郎:二つの海景(♀:祈りの浜 / ♂:怒れる海民の夜)
 
ピアノ:イリーナ・メジューエワ

【収録】
録音: 2021 年 11 月 9 日~10 日
録音場所: 神奈川県立相模湖交流センター
録音方式:96khz & 24-Bit Digital Recording
使用ピアノ:NEW YORK STEINWAY 1922 Art-Vintage