今回はオーケストラ、室内楽、ピアノの各分野から必聴の名盤3枚を紹介する。いずれもステレオサウンドのオーディオ名盤コレクション第4期として発売されたSACD+CDのパッケージで、源流に限りなく近いアナログマスターの音を忠実にデジタル変換した音源を収録している。ノイズ除去やダイナミックレンジの修正を行なわないフラットトランスファーであり、マスターテープの音をそのまま家庭で再現できる究極のディスクメディアとしての価値は本誌読者にはおなじみだと思う。

源流に近い音だからこそ、時代を超える大名盤の感動が鮮やかに蘇る

シングルレイヤーSACD+CD
『ドヴォルザーク:交響曲第8番、スケルツォ・カプリチオーソ/イシュトヴァン・ケルテス指揮ロンドン交響楽団』

(ユニバーサルミュージック/ステレオサウンドSSHRS-058/059) ¥5,500 税込
●仕様:シングルレイヤーSACD+CD 2枚組
●録音:1963年2月22、23、25、26日ロンドン、キングスウェイ・ホール
●プロデューサー:レイ・ミンシャル
●エンジニア:アーサー・リレイ、マイケル・マイレス
●デジタルトランスファー:ジョナサン・ストークス(Classic Sound Ltd UK)
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 ドヴォルザークの交響曲第8番はケルテスがロンドン交響楽団を振った1963年の演奏で、名録音の牙城というべきロンドンのキングスウェイ・ホールで収録したおなじみの音源である。その2年前にウィーン・フィルと録音した《新世界》もそうだが、ドヴォルザークならではの旋律の美しさや躍動的なリズムを鮮明な形で提示した名演であり、デッカのチームが手がけた録音の鮮度の高さもあいまって、半世紀以上にわたって聴き継がれている。

 交響曲第8番はボヘミアの自然と風土からインスピレーションを得た明るく肯定感に満ちた音楽なので、「民族主義的作風」という解説にとらわれず素直に楽しむ方が曲の本質に近付けるはずだ。邪魔な要素を取り払うことが作品本来のよさを引き出す一番の近道という意味で、他の指揮者のドヴォルザーク演奏とケルテスの演奏には決定的な違いがある。拡大解釈や厚化粧とは無縁。楽譜に忠誠を尽くしつつ、旋律美や透明感などの本質的な美しさや演奏の高揚感を引き出すことにかけては誰にも負けない情熱の持ち主なのだ。時代を超えて愛されている理由はそこにある。

 デッカの録音チームは、そのケルテスの長所を正確に理解しているからこそ、聴かせどころを埋もれさせず、鮮明に描き出すことに意識を集中させた。第1楽章や第4楽章でフルートの澄んだ旋律が際立ち、トロンボーンとコントラバスのユニゾンがオーケストラ全体を牽引する様子が伝わるのは、演奏自体にそなわる見通しのよさをもらさず引き出す努力の賜物なのだ。左右にくっきり分かれる楽器配置でステレオ録音の長所を聴き手に意識させる手法にこの時代特有の姿勢が読み取れるとはいえ、そのおかげで瑞々しい音色で歌い切る第一ヴァイオリンの上手さが際立ち、パッションを引き出すケルテスの手腕が光る。

シングルレイヤーSACD+CD
『ドビュッシー&ラヴェル:弦楽四重奏曲/イタリア弦楽四重奏団』

(ユニバーサルミュージック/ステレオサウンドSSHRS-068/069) ¥5,500 税込
●仕様:シングルレイヤーSACD+CD 2枚組
●録音:1965年8月11〜14日 スイス、ヴヴェイ、ヴヴェイ劇場
●プロデューサー:ヴィットリオ・ネグリ
●エンジニア:トニー・ブチンスキ
●デジタルトランスファー:ジョナサン・ストークス(Classic Sound Ltd UK)
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 イタリア弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルは、19世紀末から20世紀初頭にかけて作曲されたこのふたつの弦楽四重奏曲の真価を現代の聴き手にも再認識させる重要な録音である。2作品を一枚に収録することが多いため私たち聴き手はこの2曲を聴き比べる機会が多いわけだが、実は作曲家同士も互いに相手を強く意識していたふしがあり、ラヴェルはドビュッシーの曲から着想を得て、ドビュッシーは自作品の10年後に書かれたラヴェルの作品を称賛した記録が残っている。しかし曲想はもちろんのこと和声やリズムにもそれぞれの作曲家の個性が強く反映されているから、たとえランダムにシャッフルされて聞かされてもすぐに言い当てられるはずだ。

 イタリア弦楽四重奏団がフランス作品に初めて取り組んだ録音とはいえ、演奏にはいっさいの力みがない。楽譜に忠実な姿勢を貫くことで、両作曲家の個性を的確に浮かび上がらせることに成功している。アーティキュレーションに曖昧さがなく、鋭く勢いのあるフォルティッシモから弱音の柔らかいレガートまで音色の幅が広く描き分けが緻密だ。イタリア弦楽四重奏団の真骨頂というべきこの資質は録音から60年近い年月を経た今日でも色褪せず、当時のフィリップスの室内楽録音の水準の高さをも物語る。ラヴェルの第2楽章、勢いの強いピチカートが立体的に交錯する動きは何度聴いても脈の高まりを抑えられないほどの高揚感をもたらす。

シングルレイヤーSACD+CD
『ヴィルヘルム・バックハウス 最後の演奏会』

(ユニバーサルミュージック/ステレオサウンドSSHRS-064/067) ¥10,120税込
●仕様:シングルレイヤーSACD+CD 4枚組
●収録曲:ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》、第18番(第3楽章まで)、シューベルト:楽興の時、即興曲 作品142-2、モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番《トルコ行進曲付》、他
●録音:1969年6月26、28日 オーストリア、オシアッハ、シュティフト教会
●デジタルトランスファー:ジョナサン・ストークス(Classic Sound Ltd UK)
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 バックハウスの『最後の演奏会』は文字通りこの偉大なピアニスト生前最後のライヴ録音である。ORF(オーストリア放送協会)の録音チーム(編注:本作はORF録音のデッカライセンス盤)が2日間にわたる演奏会を鮮明な音でとらえていたおかげで、私たちは巨匠が最後の力を振り絞った歴史的な演奏を追体験することができるのだ。ちなみに作曲家別に並べた筆者のレコードラックにはバックハウスのソナタ全集が何十年も変わらずベートーヴェンコーナーの定位置を占めていて、他のピアニストを聴いた後、もう一度バックハウスの演奏を聴き直すことを繰り返してきた。バックハウスの揺るぎないベートーヴェン解釈はまさにリファレンスたりえる価値が備わるのだ。そして、最後の演奏には、基準となる全集録音でも現れることのなかった特別なパッションが聴き取れる瞬間があり、特に最後の楽章まで到達できなかった第18番の演奏には怖れを抱くほどの張り詰めた空気が刻まれている。

 今回のフラットトランスファー盤ではバックハウス自身の声や聴衆の反応もこれまでになく鮮明に聴き取れるが、なによりも感動するのはピアノの豊かな響きと強靭な骨格が理想的なバランスで蘇っていることだ。LPレコード時代に聴いた無数のピアニストのなかで、バックハウスのベートーヴェンは、演奏面だけでなく、ピアノの響きの良否を判断するうえでも重要な指針を与えてくれた。現在に至るまでその記憶はとどまっているとはいえ、今回のSACDの音を聴くことを通して、記憶がもう一度鮮鋭に刻み込まれることになった。源流に近い音を聴くと、最初に聴いたときの感動や驚きが鮮やかに蘇り、記憶がさらに鮮明化して定着することがある。今回のケルテスやイタリア弦楽四重奏団にも同じことが当てはまるのだが、不思議なことに音響的には一番シンプルなはずのバックハウスでの体験が私にとってはもっとも強いインパクトとなった。

※本記事はHiVi 2022年7月号に掲載されています。