4月28日、スペインのIFAグローバル・プレス・コンファレンスの帰りに、アムステルダムを訪れ、久しぶりにアムステルダム・コンセルトヘボウでロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)を聴くことができた。これまでヨーロッパの名コンサートホールをいくつも聴いてきたが、やはりコンセルトヘボウでの響きは、ワン・アンド・オンリーだ。

 指揮はフィンランドの期待DIMA SLOBODENIOUK(ディーマ・スロボデニューク)。昨年、首席指揮者のダニエレ・ガッティがセクハラで電撃解任された後の11月前半の北欧ツアーの指揮者として、同オーケストラにデビュー。元々は、2019年4月にデビューを飾る予定だったのが半年早まった。現在はスペイン・ガリシア交響楽団、フィンランド・ラハティ交響楽団の首席指揮者で、世界的にも注目が集まっている。曲目はチャイコフスキー・交響曲第5番ホ短調。

アムステルダム・コンセルトヘボウ。オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

コンセルトヘボウの超ユニークな音響

 ベルリン・フィルハーモニー、サントリーホール、エルプホール(ハンブルグ)、川崎ミューザ……と最近のコンサートホールはワインヤード型がほとんどだが、それとはまったく違うシューボックスの真髄がコンセルトヘボウで、聴けた。

 ワインヤードはホール全体に音が拡散し、隅々までしっかりと音が届く。拡散しすぎで、オーケストラが自分の音が聴けない、1階席の音が薄くなる……という現象も起きる(だからステージ上に反射板が必須)。一般的にはヌケがよく、クリアーで響きにも透明感がある。すっきりとしたサウンドだ。

 シューボックスの典型のコンセルトヘボウは、ひじょうに濃密でこってりとした響きが特徴だ。ステージ上で奏された音が、分厚い音の塊となり、駆け上る。ワインヤード型では、弦や木管、金管といった個々のパートの音が会場に拡散し、広く巡るが、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は、個々のパートが目立つ前に、オケ総体の響きが鉄壁のように分厚い。いい意味で音がヌケずに滞留し、渦巻くから、音が凝縮され、さらに濃密な響きになる。このホールでは音の解像度より、音の濃醇さを堪能する。

 むしろ見方を変えて、オーケストラが大きな響きに包まれるとの形容もできよう。でも音はステージ上の大きく、密度の高い響きの固まりに閉ざされているわけでは決してなく、フルートやクラリネットのソロは、その厚い響きの殻を、軽々と破って客席席まで広く飛翔する。

 驚いたのは、金管の強奏で、ホール後方からの遅れた反射がないこと。大きなホールでは、ステージ上で奏されるトランペット、トロンボーンの尖った音が、対向の後部の壁に反射し、エコーや歪みが時間差を持って、生じることが多い。

 翌日に聴いたオランダオペラ劇場(演目はマダム・バタフライ)では、トランペットの鋭い一撃に、ホール後半から一瞬遅れて反射音が出た。しかしコンセルトヘボウでは、そんな金管の鋭角的なパルスも、豊潤な響きに包まれ、会場内にきれいに集束していく。

街中にあるアムステルダム・コンセルトヘボウ。市電が走り、交通量もひじょうに多いが、ホール中にはノイズ混入は、なし

ホールの濃醇な響きの中でのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の音

 RCOは、このホールの濃醇な響きの中で日常演奏している。「ホールは楽器だ」という格言が、コンセルトヘボウで、生でこのオーケストラを聴くと実に納得できるのである。低音から高音まで輝ける質感。特に低域の充実度が素晴らしい。芯がしっかりとあり、同時に音の表面の粒立ちがこまやかで、しかも滑らかだ。高弦は高密度に加え、すべての音(高低、強弱を問わず)に高貴な輝きがある。

 この「高貴さ」こそ、他にもいつくかある世界最高を謳うオーケストラとの差別化点であろう。トゥッティの強奏でも輪郭感、強調感、押し出し感などの意識的な演出性がまったく感じられず、ボリュウムが増えた分だけ豊潤さがより増し、すべらかで充実した響きになるのは、まさにオーケストラの力量とホールの特質の合わせ技であろう。

 チャイコフスキー・交響曲第5番ホ短調。第2楽章のチェロが高弦でメランコリーの歌う部分の感情の揺さぶり感に感動した。ここはスロボデニュークの指示が歌いの深さに効いているようだった。チェロ高弦は、振幅の大きなヴィブラートが加わると、表現過多でやもすれば粗くなる場合もあるが、RCOのチェロパートの決して粗野にならない、濃密な感情表現には心が揺さぶられた。

 刮目は第2楽章のホルンソロ。コンセルトヘボウで聴く、RCOのホルンはまさに特別な体験だ。前から10列目の右側に座って聴いていると、ホルンのサウンドは後ろ上方に向けた開口の方向そのままに、まずステージ上を垂直に立ち登り、次に天井から客席に降りてくる。文学的に降臨するという方が、正確か。神々しい音と立体的な音の軌跡に、その時間差が響きの厚さを生んでいることを実感した。第4楽章の冒頭の全弦のユニゾンは分厚く、滑らかなシルキーサウンドだ。

スロボデニュークは駆動力のある指揮ぶりで、オーケストラをどんどん引っ張るが、このベテランオーケストラは、悠々と自らのサウンドを奏していた。

アムステルダム・コンセルトヘボウに対面にあるアムステルダム国立美術館

フェルメールの『牛乳を注ぐ女』

『手紙を読む青衣の女』。フェルメールの青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる

アムステルダム国立美術館でオランダ名画を探訪

 アムステルダム・コンセルトヘボウのコンサートが終わった後は、公園を挟んで対面のアムステルダム国立美術館でオランダ名画を探訪。フェルメール『牛乳を注ぐ女』を50cmほどの近さで観て、もの凄く精細に描き込まれていること(特にパンの固まりや窓のガラスのディテイル)に驚嘆。日本では『牛乳を注ぐ女』とされているが、美術館のパンフには『MILKMADE』。ミルクメイド!

 実は画質哲学者、近藤哲二郎氏が最近提唱している「動絵画」では、絵画自体の手法との類似性が語られている。そのひとつの例が、『MILKMADE』。まるで注がれるミルクが、本当に壺のなかから上から下に動きを持って落ちているような錯覚を受ける。「アナログ的な連続性を追究した、新アナログ技法」の動絵画の発想の根源が、この『MILKMADE』だと、感慨を持った。近藤さんの動絵画ではないが、まさにミルクが注がれる動きが見えるよう。

 アムステルダム国立美術館といえば、レンブラント『夜警』。天下の名作の前には、山ほどの人だかり。小さな子供も見学に訪れるのが、文化大国の所以だ。

 さて、本作が名作である所以が、(1)昼間を描いたのに、夜景のような暗部と明部のコントラスト、光と影の大胆な対比。(2)市民団をドラマティックに描く。それまでは画料が等しく払われるので、個個が横並びで同じ大きさの群像画だったが、大小を与え、顔を向ける方向のメリハリがドラマティックさを演出している。ここまでは既存の説だが、私の発見が……。

 (3)顔の並びは、バラバラだが、実は武器と旗の方向が揃っているので、構図に強靭な統一感を与えている、と『夜警』と長い間対峙していると分かった。画面右上、左向きに約70度の角度の2本の槍、画面左に同じ左約70度の角度で旗棹が1本、画面左下は銃が2本、同じ左約70度の角度だ。つまり5本が約70度角度で左向きに配置されている。

 これに対し、中心に居るフランス・バニング・コック隊長が持つ銃、隣のウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の持つ刀、その後ろの人が持つ銃は右に約30度の角度で持ち上がっている。つまり、左に約70度と右に約30度の角度のオブジェクトが画面に複数に強固に配置され、顔や体の方向は多彩であるにも関わらず、絵全体に統一感と、強固で安定的な構図を与えていることが、肉眼で本物を見ると、分かってくるのである。『夜警』の秘密が分かった。さすがはレンブラント!

レンブラント『夜警』はいつも大人気

他の集団肖像画は、みんなが等分に描かれている。レンブラント『夜警』は人物の大小にメリハリが