香港映画界を生き抜いてきた伝説のスタッフが揃う

 最後に「劇終」の文字が出たときに、心のなかで終わらないでくれー! と叫んだよ。いまでは数少ないものになってしまった広東語で語られる、香港映画らしい香港映画。

 いいシリーズだったなあ。ドニー・イェン最高の当たり役だったともいえる。『イップ・マン 序章』(2008年)でスタートしたイップ・マン・シリーズの最終第4作。ファンはシリーズを順番に観てきているだろうけど、簡単に振り返ると実在の中国武術家・葉問(1893年~1972年)の半生を描く過去の3本はこんな感じで進んできた。

『イップ・マン 序章』(2008年/日本公開2011年2月)
1938年、日本軍に占領された中国・広東省佛山市。同地で詠春拳を確立しようと考えている宗師、イップ・マン(ドニー・イェン)の苦難を描く。戦いの相手は日本軍の空手高段者である三浦大佐(池内博之)。

『イップ・マン 葉問』(2010年/日本公開2011年1月)
1950年、妊娠中の妻ウィンシン(リン・ホン)、幼い長男と共に香港・九龍地区に移住し、困窮しながら武館を開いたイップ・マン。同地の武術会を牛耳る洪拳の師範ホン(サモ・ハン・キンポー)との丸テーブル上での凄まじい戦い。つづいて残虐なイギリス人ボクサー(ダーレン・シャラヴィ)に挑む。

『イップ・マン 継承』(2016年/日本公開2017年4月)
1959年、好景気に沸く香港。弟子も増え、武館の経営が軌道に乗ったイップ・マンの前に不動産王のフランク(ボクサーのマイク・タイソン)が立ちはだかる。小学校の先生役に新進美人女優のカリーナ・ン。詠春拳の正統を賭けて、市井の武術家チョン・ティンチ(マックス・チャン)と対決する。

 この3本につづく『イップ・マン 完結』は、1964年の香港とサンフランシスコが舞台となった。学校で問題を起こした次男チンの将来を案じたイップ・マンはその留学先を探すためアメリカを訪れ、そこでかつて彼から詠春拳を学び、のちそれを発展させた武術・截拳道(ジークンドー)を創設する愛弟子のブルース・リーに再会する。

画像: 息子の留学先を探すためサンフランシスコを訪れたイップ・マンは、同胞を守るための死闘を繰り広げることに……

息子の留学先を探すためサンフランシスコを訪れたイップ・マンは、同胞を守るための死闘を繰り広げることに……

 今回、拳を交わすのはサンフランシスコのチャイナタウンにある中国移民の互助組織・中華総會の太極拳の名手ワン(『SPL 狼たちの処刑台』のウー・ユエ)。それにアメリカ海兵隊の空手の使い手フレイター(クリス・コリンズ)、海軍基地でマーシャルアーツの教官を務めるゲッデズ(『ドクター・ストレンジ』で魔術師ルシアンを演じたスコット・アドキンス)だ。

画像: 中華総會で激しく戦うイップ・マン(左)とワン(右)。室内の家具もフル活用したアクションシーンは見物だ。なお、ワンを演じるウー・ユエは、10代のころ八極拳で全国優勝した経験を持つ武術家でもある

中華総會で激しく戦うイップ・マン(左)とワン(右)。室内の家具もフル活用したアクションシーンは見物だ。なお、ワンを演じるウー・ユエは、10代のころ八極拳で全国優勝した経験を持つ武術家でもある

 シリーズ4本の演出はすべて、『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』(2006年)と『導火線 FLASH POINT』(2007年)でドニー・イェンと組んだウィルソン・イップが務めており、脚本のエドモンド・ウォン、音楽の川井憲次、製作のレイモンド・ウォン(『悪漢探偵』『男たちの挽歌』などを放った香港映画黄金時代の製作会社シネマ・シティの創設者のひとり)も共通するメンバーだ。

 アクション監督は『序章』と『葉問』をサモ・ハン・キンポー、『継承』と『完結』を、『ドランク・モンキー/酔拳』(1978年)でジャッキー・チェンを世に出し、『マトリックス』(1999年)や『グリーン・デスティニー』(2000年)に参加した大御所のユエン・ウーピンが務めている。文字通り、香港映画界を牽引し生き抜いてきたスタッフが集まっているのだ。この顔ぶれを見ているだけで涙が出る。

ブルース・リーに憧れたドニー・イェンが、その師を演じるために行ったこと

 今回の見どころのひとつは、これまでも弟子の李小龍として劇中に名前や写真が登場し、『継承』で青年となってイップ・マンの武館を訪ねてくるブルース・リー(高慢ちきな態度なので一度は入門を断られてしまう)が主要人物として活躍することだろう。

 演じるのは『継承』と同じチャン・クォックワン。子どものころからブルース・リーに憧れて育ち、達者な物真似をチャウ・シンチーに認められて『少林サッカー』(2001年)でリーそっくりのゴールキーパー役に抜擢された男優だ。もとは振付師として活躍しており、シンチーの次作『カンフーハッスル』(2004年)ではギャング斧頭会の組長を演じ、ダンス・シーンの組み立てにも貢献した。

 今回、クォックワン扮するブルース・リーは、サンフランシスコの裏通りで中国拳法にイチャモンをつける空手家のフレイターと戦う。独特のあのステップ、表情、怪鳥音からの蹴り!

 押し込まれたフレイターは慌てて赤いヌンチャクを取り出すが、それは自分からやられにいくようなもの(笑)。『燃えよドラゴン』(1973年)で同じ武具を奪い取られた警備員同様のハメになる。目にも留まらぬ高速ヌンチャク&「ドアは反撃しないが、俺はする」(ニヤリ)といういかにもブルース・リーな決めゼリフ。クォックワンの晴れ姿である。

画像: クォックワン演じるブルース・リーは、画面に現れた瞬間、思わず「似てる……!」と声が出そうになる。ヌンチャクまで登場するのが、ファンにはたまらないだろう

クォックワン演じるブルース・リーは、画面に現れた瞬間、思わず「似てる……!」と声が出そうになる。ヌンチャクまで登場するのが、ファンにはたまらないだろう

 自分の弟子だからそんな李小龍を見てイップ・マンは「ふむ」みたいな顔をしているが、演じるドニーもこの場面では心中、快哉を叫んでいたかもしれない。チャウ・シンチーと同じく、ドニー・イェン(2歳で父母と共に中国・広州から香港に移住し、11歳から16歳までをアメリカのマサチューセッツ州ボストンで過ごした)にとってもブルース・リーは少年時代のヒーローだったからだ。

 ドニ―はボストンのチャイナタウンで、ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)や、フー・シェンの『嵐を呼ぶドラゴン』(1972年)といったクンフー映画に心奪われたと言われている。2010年の『レジェンド・オブ・フィスト/怒りの鉄拳』は、『ドラゴン怒りの鉄拳』と同じ不屈の主人公、陳真に扮した続篇的作品。そこでドニーは何度も怪鳥音を披露していた。

 母親が太極拳の師範で、リー・リンチェイ(ジェット・リー)も通った北京の業余体育学校で武術を学んだドニー・イェンが秀でているのは、時代劇の剣戟から総合格闘技系の刑事アクションまで、作品ごとに異なる体技を操れることだ。そんな彼も『序章』までイップ・マンが完成させた拳法・葉問派詠春拳を学んだことはなかった。

 詠春拳は、大陸を横断する大河・長江の北と南で大別される中国拳法の南派拳術に属する武術で、短橋狭馬(たんきょうきょうま。歩幅が狭く、腕を伸ばしきらない)を特長とする接近格闘術。イップ・マンが用いる捌きから、シュタタタタと何発も打ち込む素早い打撃が代表技で、ドニーは撮影の9ヶ月前から木人樁(もくじんしょう。人型の木製練習具)を使って詠春拳の習得に励んだという。夕暮れのオレンジの日差しのなか、木人樁を黙々と叩くイップ・マン(ドニー・イェン)の姿は、シリーズのアイコンになった名場面だ。

画像: 因縁を付けてきた、アメリカ海兵隊の空手教官フレイターと戦うイップ・マン。「歩幅が狭く、腕を伸ばしきらない」構えをしているのがわかるだろうか

因縁を付けてきた、アメリカ海兵隊の空手教官フレイターと戦うイップ・マン。「歩幅が狭く、腕を伸ばしきらない」構えをしているのがわかるだろうか

画像: 画像の中央、柱の右側にある濃い茶色の物体が木人樁。シリーズの象徴である木人樁は本作でも粋な使われ方をしており、ファンであれば涙を禁じ得ないだろう

画像の中央、柱の右側にある濃い茶色の物体が木人樁。シリーズの象徴である木人樁は本作でも粋な使われ方をしており、ファンであれば涙を禁じ得ないだろう

中国政府に飲まれつつある香港で、気を吐き続ける製作会社に見る希望

 このシリーズが香港で大ヒットをつづけ、日本でも愛されてきたのは、妻や子との家族のドラマ、仲間たちとの友情のドラマ、類い稀なる活劇シーンに加え、1950~60年代の古き良き香港の街並みと生活がていねいに再現されてきたからだろう。

 タイル張りの室内の床や、ペンキが塗られた緑色の窓枠。大通りの看板や洗濯物。女性たちの高襟のチャイナドレス。『継承』でムエタイの殺し屋が突然襲いかかってくる、雑居ビルの狭いエレベーターなど『イップ・マン』シリーズは消えゆくもの、消え去ったものに愛惜の情を送る香港版の『ALWAYS 三丁目の夕日』だったといえる。庶民の平凡だが幸せだった日々、ノスタルジックな気配が映画全体を包んでいるのだ。

 1997年のイギリスから中国への主権移譲から早20余年。現在では本土での興行を意識した合作、北京語作品が中心になり香港映画はすっかり様変わりをしてしまった。

 返還時に約束された最低50年間の一国二制度の維持も、今年の5月28日に中国全国人民代表大会(全人代)で香港国家安全法が可決され、中国政府の強力な意向が自由都市として発展してきた香港に及ぶことになった。

 今年、『淪落の人』(2018年。涙の名作!)のプロモーションで来日したアンソニー・ウォンは「本当に残念だが、香港映画の時代は終わりつつある」と語っていた。2014年に香港で起きた民主化要求デモ(雨傘運動)への連帯を表明したアンソニー・ウォンは中央政府のブラック・リストに載り、出演作の本土公開が実質不可能になっている。そのため、これまで年数本の作品をこなしていたベテラン、アンソニーの俳優活動も難しくなっているのだ。

 こんな状況のなか2018年に香港で設立されたのが、『イップ・マン 完結』を製作した東方影業出品有限公司(マンダリン・モーション・ピクチャーズ)で、日本ではルイス・クー主演の警察アクション『サンダーストーム 特殊捜査班』(2018年)、後述する『イップ・マン外伝 マスターZ』(2018年)、フランシス・ン主演のファミリー・コメディ『眺望良好』(2019年。本邦ではNetflixで配信中)が紹介されている。

 今年香港で公開予定の女性刑務所映画『女子監獄』(カリーナ・ン、クリッシー・チャウ、ジリアン・チョンら美形女優が勢揃い。これ、面白そう!)を含め、これまで作った13本の映画がすべて広東語作品という、拍手するしかない地元超密着型の製作会社!

 香港に何度か行くと覚える便利な言葉に「唔該」(ンゴイ)という広東語があるのだけれど、これは「ありがとう」「すみません」という軽めの挨拶。駅でも食堂でもどこでも使える。これと「買単!」(マイタン=お会計)のふたつがあれば、どんなものでも食べられる(笑)。

 『イップ・マン 完結』でも留守中の息子の世話を頼まれ、イップ・マンからお茶を出してもらった友人のポー刑事(『葉問』『継承』にも出ている名脇役男優のケント・チェン!)がボソッと「ンゴイ」と言っている。ああ、いいなあ。これが香港映画だなあ。古き良き香港映画の魅力がちいさな実をつけているのだ。

ファンなら絶対押さえておきたい、輝かしいクンフー映画たち

 ドニー・イェン版『イップ・マン』の成功は、何本かの後追い作品を生んだ。

 『葉問』でイップ・マンの最初の弟子を演じていたデニス・トーが、若かりし日の師父に扮する『イップ・マン 誕生』(2010年。武道家役でユン・ピョウとサモ・ハン・キンポーがひさびさの共演)。『八仙飯店之人肉饅頭』(1993年)のハーマン・ヤウ監督とアンソニー・ウォンのコンビ作『イップ・マン 最終章』(2013年。晩年の師父を描く。エリック・ツァン、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズの鬼脚七役で知られるホン・ヤンヤン、『君さえいれば/金枝玉葉』のアニタ・ユンなど香港映画ファンおなじみの人気俳優が大集合したお楽しみ作。労働組合の委員長役でサモ・ハンの息子であるティミー・ハン、雑貨屋の店主役でイップ・マンの実子イップ・チュンも顔を出す)。

 『イップ・マン外伝 マスターZ』(2018年)は、『継承』でマックス・チャンが演じたチョン・ティンチを主人公にしたスピンオフ的作品。演出はユエン・ウーピン、アクション監督はその弟のユエン・シュンイー。ミシェール・キングがギャングの女ボスに扮して、マックス・チャンと眼福としか言いようのない奇蹟のクンフー・ファイトをくり広げ、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のドラックス役、元WWEのプロレスラー、デイヴ・バウティスタが投げ捨てパワーボムを披露したりする。

 これ、2018年に香港娯楽エンターテインメントの発熱が再現された大痛快作だ。ミシェールも『マスター・オブ・リアル・カンフー/大地無限』(1994年)や『グリーン・デスティニー』で組んだウーピンの要請がなければ再度格闘シーンに挑まなかっただろうなあ。

 もう一本、ウォン・カーウァイ監督の『グランド・マスター』(2013年)もトニー・レオン演じるイップ・マンを主人公にした武侠映画だった。武術指導はユエン・ウーピン。スローモーション映像やワイヤーワークを駆使して、チャン・ツィイー、チャン・チェン、マックス・チャンらが演じる武術各流派のせめぎあいが描かれる。夢幻的なヴィジュアルが見ものといえた。

 その昔、移民として中国からアメリカに渡り、鉄道の建設工事に携わったのになんの権利も認められず、土埃のなかに倒れた父や祖父たちの無念の思い。『完結』の中盤には、中華総會の師範がブルース・リーやイップ・マンの前でこのエピソードを語る場面が登場する。

 これは広く中国人の間で語り継がれてきた苦難の物語で、『侠女』(1971年)や『迎春閣之風波』(1973年)の巨匠キン・フー監督が1985年の来日時に念願の企画として語っていた。その真剣な表情が忘れられない。

 キン・フー監督は1997年の年初(奇しくも香港返還の年だった)に病に倒れ他界。その遺志を継いだジョン・ウー監督が、残された脚本「華工血涙史」をチョウ・ユンファとニコラス・ケイジの共演で映画化するという話もあったが実現していない。

 舞台がサンフランシスコに移ったためだろう。『イップ・マン 完結』には、祖国を離れた中国人が背負ってきたさまざまな思いが影を落としている。望郷の念も未来への希望も描かれている。

 その地で戦ったイップ・マン=ドニー・イェンは西陽指す香港の安らぎのなかに戻り、そこで羽を休めることになる。ラストシーンでは功成り名遂げたブルース・リーもそこへ戻ってくるのだ。

『イップ・マン 完結』

監督:ウィルソン・イップ
出演:ドニー・イェン/ チャン・クォックワン/ウー・ユエ/ スコット・アドキンス/ヴァネス・ウー/クリス・コリンズ/ ケント・チェン
原題:葉問4 完結篇
2019年/中国=香港/1時間45分
配給:ギャガ・プラス
7月3日(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開
(c) Mandarin Motion Pictures Limited, All rights reserved.

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